「Agriculture by EMELON 01」
伊勢をデザインしよう
中谷農機商会 1963年頃
ここ数年ローカル線が好きで特別名所に関係なく青春18切符なんかを使ってよく旅に出向く。そんな折、沢山のこころ動かされる車窓に巡り会う。そんな車窓のひとつが農耕の現場である田んぼや畑だったりする。田んぼがあって段々畑に黒いトタンの作業小屋なんかも併設されてたり、これが何ともいかす。日本にある様々な風景の中で普段着なんだけれど、とっておきの日本の原風景をそこに感じてしまう。そして、そんな風景の中に自分を配置してイメージ遊びに興じる。ああ、いつかこんなシーンの中に佇んでみたいななんて・・・
中谷清吉 1963年頃
そしてもうひとつの動機にボクの父に生家が絡む。父の中谷清吉は西暦1900年明治33年生まれ、ボクは彼60歳の時の子供(母・安子はなんと27歳)なのです。松阪の郊外、嬉野町の農家に生まれた父は義務教育終了後15歳くらいで大阪船場の機械業者に丁稚奉公に入った。そうして現場で従事する農耕から降りた彼は、現場に農業機械を提供する側の人間になり地元に戻り起業する。第一次世界大戦と二次大戦の狭間にうまく事業を展開出来て繁盛したみたいだ。当然結婚し家族も増やし育て上げた。途中太平洋戦争もあり大変だったろうとも思う、そしてもう数年で還暦だという1950年代半ばにボクの母と出会う。今で言うとこれは色恋沙汰だが、当時の日本にしたら何てことなかったような?父は実家の店を息子さんに託し、自分は家を出て伊勢に支店を起業、もちろん母を連れて。彼の生活は丸ごと伊勢に移され、滅多に実家に帰らず、でも本妻さんがとっても素敵な人で母もボクもずいぶんと可愛がってもらった覚えがある。
思えば父が何故に伊勢に移住を決断したか、もちろん商いの新たな基地としてその周りの市場を睨んだことは十分に考えられる。でもそれだけでなく神宮、外宮にこころ寄せていたことは明らかだった。彼はほぼ毎朝のごとく参拝に出かけていた。農業、農業機械、お米、食を司る豊受大御神つまり外宮なんて接点も出来たりもする。
さて話しは現在に、EMELON 相方ゆきの実家が伊勢市朝熊町で田畑を所持し稲作他を行っていたが、世代交代をしたいとのことでマジで耕耘機の操作や稲作のイロハを習い、ゆきがコレに名乗りを上げた。そこでボクもいい機会だとばかりにこれに乗じ参戦と相成った。もちろん現場に赴き実労も、しかしボクとしては収穫や文化に触れることに止まらず、この農耕というものにデザインを持ち込もうという企みがある。先に上げた「とっておきの日本の原風景」を背景に、そこにデザインを放り込もうと思うのだ。例えば、ロックやパンクなどに付き物のそれらに付随したファッションやカルチャーなど、agriculture 農耕を通してそれをやってみたい衝動に駆られるのだ。しかしデザインをしたいから農耕をしたいのでなくて、農耕の現場にデザインしなくてはならないおもしろく楽しいものが沢山転がっているのでしないわけにはいかないというのが正しいのだ。
ざっと考えるだけで、その現場で育ったのに当時は油臭いは煙は出るわうるさいわで大嫌いだった農業機械、これを改めたい。実際に今はそれらに大いにこころ惹かれてるわけで、それらを今ある状態にもう一歩踏みこんで人も驚く格好良き耕耘機などに改造を試みたり、baseball team のごとくそろいの作業用のユニフォームなどを手がけようと思っている。とにかくやれることは沢山あって、考えるだけで胸躍るものがある。
これはただのデザインに止まらない、都会では出来ないデザインなのである。とかく都市生活を彩るものがデザインだと思われがちであるが、ボクは異を唱えるものである。地方都市、田舎町その背景になってる田畑それらにまつわるモノゴトをデザインする。何度も言うがデザインは装飾だけでは無い機能を伴ったおもしろきものでありたい。そして地方生活の華、漁業や林業などの他の第一次産業だってデザインされるべき対象だと思っている。
さて実際の農作業、5/1, 3と二日行きました。「シロカキ」という地ならしに本番の「田植え」、田んぼでの歩行は無重力の反対の有重力の世界で足が動かし辛く大変に足腰が疲れます。水も入ってるため結構冷たいです。そしてそんな作業をカエルの合唱が応援してくれます。昔まだ耕耘機など無い時代は動力として牛がその代わりを行っていました。母方の祖母は農業をやっていて、幼い頃そこに行くと牛が飼育されていて驚き、ボクは彼女のことを「モーばあちゃん」と呼んでいました。正月などに行くと田んぼは空からに乾燥しててそこで凧揚げなどをして遊びました。
モーばあちゃんと外宮にて、1961年11月
農耕を通して天国の父親や祖母、そして自分の DNA を逆行していくような感慨がこみ上げます。僕に限らず、多くの日本人の少し前は農林水産業が中心に出来上がっていたんですよ。だから僕たちEMELON だけでなく、そんな気持ちになる人は日本中に沢山いますよ、きっと。
最後に、昨今パワースポットとかで神宮などに人が群がりますが、それ以前の場所がこういう第一次産業の現場である田畑、海や山なのなんじゃないかとボクは考えます。こういうモノゴトを司っているのが神社仏閣で本来の現場はそこに非ずだと思うのです。伊勢のボクの周りの友人にも農耕に取り組んでる若い人が少しずつ増えて来てるように感じます。彼らとも意見交換をして楽しくおもしろい地方都市の原点である新たなスタイルの農耕を創造し、提案出来れば幸いだと思います。コミュニティーに逃げ込むような成り立ちでなく、そしてそれはしっかり現実社会との接点をもったものでありたいです。
唯一の従業員だった久保田音吉さん、通称音やん。彼は名前とは逆に耳が不自由だったがボクを坊ちゃんのごとく可愛がってくれた。彼のことを思い出すと未だに込み上げる思いがわく。
作業の facebook フォトアルバムはこちら
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.493179754086664.1073741833.100001839313078&type=3

7