昨日の松田家新年会、ご家族の皆さまのもてなしに感謝いたします。また来年もぜひ呼んでください。
会もたけなわサカナくんの岩手大鎚バイクツアーでのアクシデント、米田くんの仕事を取り巻くトラブルに爆笑、西岡くんは新事務所に移り、仕事も快調でオンナにもモテモテとのこと(笑)あやかりたいものですな・・・などなど盛りだくさんでした。
で、西岡くんがスタジオとして2年間使ってくれたネオ・ウメダ(ボク所有のボロ家)の行方に話題がのぼったのです。2007年に入手し仲間にヘルプしてもらい一年半かけてリノベーションした物件も十年を経て限界。そろそろ手放したい、買う方がいれば売りたいという意向なんです。
さてこれまでは河崎にて物件を探し、知人友人でこの町で何か興したいと思う人達と使われていない物件や大家との中継ぎをエメロン的にやって来たのですが、それが今回は反転し大家であるボクがこのボロ家と土地の行方を考えさせられる立場に・・・
さてココからは、よく見える一般的な住まわれてない古民家の大家さんにご登場を願いましょう。
Q ◯◯さんが所有のこの物件に興味を持っている友人がいて、賃貸で貸してもらえないでしょうかということなんですが?
A あっ、これね。ワシらはここに住まってないが東京で働いてる息子が帰省してここで何かやろうかなと考えてるみたいでな。
十年前にも五年前にもそして今もまた似た様な返答。息子さんの帰省はなく物件は朽ち行くばかり・・・これがまあ大体の地方都市、住まない物件地獄絵巻の真相。
そのような物件いや建物は時間の中で朽ちて消滅するけど、それが乗っかってる土地。それってホントにその大家のモノなんでしょうか?
違和感あります。今の所有者は確かにその人かも、しかし土地はその地域や町のものじゃないんでしょうか?小さな土地の集積の中に人々が生活し、そんなエネルギーで出来上がってるのが、その町や地域の風土のはず。
所有者はその土地の責任者として、それを今に生かす使命があるとボクは思うんです。息子の帰省など待っている場合じゃないのです。それにそのようなご子息、きっと帰らずに親が去り子も去りって未来なんじゃないかと・・・沢山の例をボクたちは見て来てますよね。
このように考えてるとき、はっと想い浮かんだ強力なエピソードがひとつ
バブル絶頂期に欧州のオークションでウルトラ価格のゴッホ(ひまわりだっけ?)の絵を落札した日本人成金のことをご記憶の方も多いでしょう。数年前だったかコイツが死ぬ間際にこうほざきます「ゴッホはワシとともに棺桶に入れて燃やしてくれ」と
何ちゅう了見?開いた口がふさがらないとはまさにこのこと。小学生でも分かるでしょ、その絵を所有者という形で責任もって管理を預かってるのが己・おのれの役目。この絵はゴッホという人間を通して刻んだ名作。それはだれのモノでもなく、全ての人のものということ。
いつから人はこの成金のような根性に成り下がったのでしょうか?
新春初ボヤキ「棺桶の中のゴッホ」でした。
あっ、もうひとつ追記
箱根駅伝はいけませんな。復路なんてナンセンスに東京に引き返すな、ちゅーん。そのまま山越えて沼津・富士・焼津と紡ぎ豊橋辺りでゴールせいと言いたい。それに親の仕送りで学園や OB たちの名誉のため走るだけの学生生活をしとる奴らの応援なんぞする意志は持ち合わせません。


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