1月2日にUPした部分で出てくる、表題の小説についてあえて補っておく。
失礼ながら意外と多くの訳が終戦直後から出ており、また発禁処分も受けていることを知った。
そんな中で、晶文社アフロディーテ双書で、須賀慣こと鈴木豊訳が、訳者の死後の2003年に、1978年の他社版の文庫を受けて出ている。訳者は、沓掛先生もふれているアポリネールの伝記を本名で訳し、ペンネームでその好色小説を刊行していた。
さて、解説というか「巻末エッセイ」は、おなじみの鹿島茂である。個人的には高校の先輩であるが。
その前半3分の1が、ルイスとの共通点などについてふれられているので、ここに引いておく。
得るところ多いが、『礼儀作法指南書』について言及するなら、そこにこの『ガミアニ』が言及されていることにふれられていないのが、本当に残念である。
「『ガミアニ』の作者と目されているアルフレッド・ド・ミュッセは、上品な物腰と美貌、巧みな会話術とエスプリ、それに、その輝くような詩才などがあいまって、じつによくモテた。しかも、たんにモテモテだったばかりでなく、相当な漁食家でもあり、下はカルチェ・ラタンの娼婦やお針子娘から、上は社交界の貴婦人まで、千人斬りとまでは行かなくても、激しい荒淫と呼ぶにふさわしい性生活を送ったことで知られている。
この点、ミュッセは、『ビリチスの歌』で知られる十九世紀末の詩人ピエール・ルイスとよく似ている。ピエール・ルイスもまた階級の区別なく二千五百人近い女性と関係をもった漁食家で、あくことなきエロスの追求者だったのである。
ところで、ここでピエール・ルイスを持ち出したのは、ほかでもない、ピエール・ルイスもまた『母娘特訓』や『少女向け礼儀作法の手引き』などのポルノグラフィの作者であり、そのポルノグラフィが『ガミアニ』と共通する一つの特徴をもっているからだ。すなわち、ミュッセもルイスも、レスビアニスム、より正確には、レスビアニスムに耽ける女たちを「覗き見する」(これをフランス語では、サフィスムという)に最高の刺激を感ずるタイプの男だったのである。
たとえば、『ガミアニ』は、最初、ガミアニ夫人とファーニーのレスビアニアン・セックスをアルシッドが覗き見する場面から始まり、最後もほぼ同じような場面で終わっている。ガミアニ夫人は語り手のアルシッドや泥棒とのヘテロ・セックスやアニマル・セックスでも興奮することはあるが、基本的には同性とのセックスを好むことには変わりはない。ルイスのポルノも同趣向の組み合わせがじつに多い。
これはいったい何を意味するのだろうか?
一つ明らかなのは、千人斬りタイプのセクシュアリティーを持つ男というのは、ペニスではなく脳髄でセックスをする男であるということだ。ペニスの要求には限度があるが、脳髄には限度がないからだ。
では、脳髄がするセックスというのはどのようなものだろうか?
おそらく、それは、セックスの最中に、相手のからだを見るだけではなく、セックスをしている自分と相手の姿態を、俯瞰的にもう一人の自分の眼によって眺めてみたいというバード・アイ願望が根底にあるものと思われる」

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