さようならを言います。いつか。
それは、別れの挨拶のフリをした I love you です。
あるいは、たちのわるい冗談です。いつか。
あなたは死に。わたしは死に。だから、
今は、なにをするかと思えば
「処刑場のある丘で」を読んだ感想を書くことです。
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以下のレビュー、ネタバレも少しあるし、本編を読んでからでないと
なんのこっちゃ分からない(読んだ後でも、なんのこっちゃ度は高い)ので
ぜひ本編を読んでから、この先を読んでいただきたいです。
(我ながら長文すぎて推敲/メンテナンスが面倒くさい。。 乱文にて失礼。)
「処刑場のある丘で」 / 桜井晴也
おもしろいです。傑作かと思いました。
でもすぐに傑作ではない気がしたので、もうわかんないですけれど
僕は、毎度の事ながら、すきです。
小説っていうか、僕にとっては長編詩かもしれないと思いました。
詩情は読み手の心に立ち現れるものかと思います。ポエジーが満載でした。
前半の2人のやりとりを「演劇的だ」と評したひとも、いました。
長い文章を読むのが得意ではないので
長い文章だなー と思うことで、これも得意じゃないなー
と思ったのは最初だけで、慣れてくると すいすい読めました。
それはこの作品に限らず、世の中 だいたいの文章がそうかもしれないので
この5行は、書かなくて良かった5行になります。ごめんなさい。
「〜のような」という直喩が多すぎて、気になっちゃうなー
と思ったのも最初だけで、後半は全然、気にならなかったけど、後半は実際に
少ないのかな。 前半、あえて多用する演出か?と思いきや、ちがうっぽい。
Kが鼻から出血して、彼女からハンカチを借りたいのに
ぜっんぜん貸してくれねえくだりで爆笑しました。ほんとうに。
爆笑ていうか、もう不思議な笑いで、いわゆる「お笑いの教科書」に
載っているような、前フリがあって落とす、裏切る、ズラす、という
分かりやすいやつではなく「感覚の笑い」なので説明が難しいけれど
異様な状況、シュールな世界観、それらに、なんとも言えない悲しさや
気まずさ、恐怖があいまって、僕にはおもしろくてたまらないです。
異様なだけ、シュールなだけでは笑えないので。なんでしょね このブレンドは。
いちおう 笑いの教科書の中に載ってるなかで、まだ一番近いのは
「ないないネタ」かもしれません。 「あるあるネタ」の逆っていうか、
逆の位相にはないけれど。あるあるのフリをして、ないことを言う 背徳感。
ただ、絶対になさそうな事を言う だけでは笑いにならないので
「なさそで、ありそな」ことを言わなければならなくて、状況が異様で 絶対に
なさそうな場面なのだけれど、「汚いからハンカチ貸したくない」 て感覚は
分かりそうな気がする、それにしたって 拒否しすぎだろ っていう
「なさそで、ありそで、やっぱりない」加減が絶妙だった。
が、それは僕のバイオリズムにたまたまハマっただけで、他のひとが読んだら
いっさい笑わずに読み進む場面かもしれないので、
この18行は、書かなくて良かった18行です。 このやろ。
ハンカチを借りることは難しいことです。
ハンカチを借りるくらい、かんたんなはずなんです。
それなのにハンカチを借りられないことは、悲しかったり、惨めだったり
なにより悔しいから、いやで、それで、難しいです。
「煉獄」、「募金女」、「人間的につまらないものへの追悼式」などの
過去作においても見受けられる桜井晴也の文学的特徴として
男女の関係性の儚さ、はがゆさ、せつなさ、いとしさ。そんなニュアンスがある。
ていうか、僕が、そういうの好きだから、そーいうふうに読めちゃうだけです。
とか言い出すと、このブログ全文が書かなくて良かったブロ… もうええわ!
書くもん!
「彼女」は、とっても女の子だと思う。
桜井晴也は女の子を、とても、女の子として描いてると思う。
でも、それは「僕(レモン)にとっての女の子」である可能性が高い気がする。
ある人は、この作品を読んで「彼女みたいな子、いるよ!」と言って、桜井さんは
「いないだろ!」と思ったらしいけれど、僕は「いるよ!」と思った。
居るか、居ないか の話なら居ないだろうけど。
彼女みたいな女の子が居るか、居ないか じゃなくて、彼女は女の子だと思う。
すべての女の子とは「彼女」みたいな存在だと、僕には感じられる。
つまり、ぼくは、Kだった。
本編に戻り、細かい部分に触れていくと
夜の焚き火の場面で伝令兵を怪しむ彼女が、次々と伝令兵の持つ性癖の
あらゆる可能性を述べる場面。「この女は何を言ってるんだ」というよりも
「この作者は何を書いているんだ」 と読者に思わせる飛躍っぷりが、爽快。
ここだけじゃないけれど、ぜんたい、こんな小説を書いていたら、キチガイだと
思われてしまう。それは、いいことですね!(にっこり)
小説。という媒体がそもそもズルくて、なんだか冷静に創作されていそうだから
この異常な飛躍との対比で浮かび上がるギャップに楽しくなってしまうよ。
僕は読んでいて、ぜったいに、ふざけてやがるな、と思った。
でも、まじめに書いてるようにみえるし、それはどちらもほんとうだし
まじめでも、ふざけるでも、「ものすごく」が重要に思う。
ものすごくまじめ! だなんて、ばかばかしいことだし
ものすごくふざける! なんて、まじめなことだと思える。
ロックンロールみたく思いっきり行くのが、えんたーていめんと!
それから、処刑場でKがトイレに行って、ごそごそする場面。
ここが、美しく描かれていていてくれて 良かった。 僕は女の子じゃないから
分からないけれど もし僕が女の子で この場面を読むとして、その時
Kを嫌悪しないと思う。 嫌悪しない女の子になりたい、って思う。
なんだか、行われている事実はグロテスクだとしても
美しいイメージのキャンバスに写し撮られていて、平気なのかもしれない。
かんけいないけれど、しごとでつらくなったときに
トイレにエスケープするのは、おすすめ! だよ。
あたしも、つらかったときにはトイレに逃げ込んで
こっそり泣いていたことなら、なんどでもあるんだよ。(にっこり)
泣くようなことは、もう なくなったけど
最近は、トイレで踊っているよ!( ひゆ ではなく)
トイレの個室で、くるくる回ったり、ぴょんぴょん跳ねたり、するの
会社では、あたし もぐらか電信柱くらいにだまりこくっていて
感情の一滴さえ零さない鉄仮面として存在しているから、ひとたび
トイレの個室に入ると、くるくる回転したり、ぴょんぴょんすることで
人間としての呼吸を取り戻しているのかも、しれないねっ! (白目)
☆
「☆」での場面転換、僕なんかは、やりたいひとだけれど
桜井さんがやるのは、少し意外だった。めずらしい。
むかむか。はむはむ。って、擬音が台詞として登場しちゃっている。
ブログ日記なら、普通というか、桜井さんの引き出しフレーズだけれど
小説にも出てくるのは場違いで素敵だ。2ヶ所。このくらいの控えめさがいい。
でも?
文学少女。(30歳)に、この部分を読ませてみたところ拒否反応だった。
文学少女。(14歳)なら、ぜんぜんOKだったりするのでしょうか。
漫画やアニメでは、もちろんOKな表現法でも、小説ではNGとされている。
アートや表現には、時代ごとに移り変わる「タブー」が、きっとあって
それは上手くすり抜けたり、ぶち破ったりするのが楽しいかもしれなくって
今、小説とか文学のタブーが、若い世代によって壊されつつあるとしたら
10年、20年後には、「むかむか。うそじゃないよ。」という台詞を書くことが
ありふれた手法になってしまっているかもしれない。
そうなったあかつきには、「むかむか」を書くことは実験でもなければ
ちっとも楽しくもないことになっちゃうので、今のうちですね。早いもの勝ち。
そうは言っても! 先頭を行くのは風当たりが強いかもしれないので、
風に負けて、普通っぽい書き方に落ち着くのもアリだと思います。その場合、
ぼくは少しだけ、むすっ とします。それだけなので、それだけです。
最後。
処刑場から、2人は抜け出して、帰る。
「もう帰ろう」と誘ったのは、以外にもKですね。
あとにもさきにも、Kが彼女をリードしたのは、この1回っきり。
僕は帰り道、2人がセックスをするのじゃないかと不埒な期待を抱いたのだけど
しませんよね。
Kは、そんなことしないし、彼女も拒否するし
そんな2人が僕はいとおしい。っていうか Kは僕です。
鈴木も陽一もレモンでさえもイニシャルKではないけれど
そんなことは、なんのアリバイにもなりえなかった。
はやく、ぼくを、つかまえてください。
あの子を殺したのは僕です。
そのこと
だけを
これから主張して生きていきたいのに
みんな、
聴いてくれなかった
だって
みんな、
興味がなかった。
ぼくは、逮捕されたりは
せずに。
これからも
ぼくには、楽しい生活だけが あった。

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