徳川家康は天下人になれなかったのでは?
「知恵泉」で徳川秀忠を扱っていますが。
前々から考えていたことですが、
徳川の初代天下人は「徳川秀忠」ではないかと。(直感ですがそんな気がするのです)
徳川家康は、大阪の陣で豊臣を倒したわけですが、
江戸城に住むことなく、すぐに静岡で隠居生活。その半年後に意味不明の死。
あまりにもおかしすぎると思いませんか。
念願の天下人になったんだから、ふつうなら、少なくとも1年ぐらいは江戸城に住むでしょう。
家康は
大阪の陣で、
真田幸村にやっつけられるところだったというくだり。
このとき死んだのではないかと思うのです。
(大阪には徳川家康の墓が今でもあるそうです)
その後、徳川軍が大阪城に大砲を打ち込みます。陣頭指揮をとったのは徳川秀頼。
父家康が殺されたなら、大阪城に大砲を敵を打つような思いで打ったのでは。
家康には影武者がよく登場しますが、実際に死んでいたら、影武者を使わざるをえません。
大阪にある徳川家康の墓
PS 6月30日、知恵泉で「徳川秀忠」を扱ってました。
大阪夏の陣で豊臣を滅ぼした徳川は、家康は静岡で隠居し大御所に、江戸は秀忠が全国の采配をふるったそうです。
秀忠は家康がいったことは最優先で行なうといった、傀儡のような采配だったそうです。
家康が「大阪夏の陣で死んだ」という観点から考えると、
家康が静岡で元気でやっているというのを全国に示すために、秀忠はそう振舞ったともとれます。
6ヶ月後、家康が死にました。その後は秀忠が鎖国などの政策を自らの考えで推し進めていったとか。家康の死因は未だに不明だそうです。
徳川300年の礎を強固にしたのが、秀忠と家光。100年長くのばしたのが、吉宗じゃないでしょうか。

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