征夷大将軍は源氏の家系に限ると言われています。
徳川家康が征夷大将軍で、豊臣秀吉が関白。東京キー局中心のテレビでは、関白の方が下であるとイメージするように取り上げられています。はたしてそうなのでしょうか。
実は違うのです。
武士は、もともと「北面武士」と言って、天皇をお守りするガードマンの役割でした。このガードマンが武力・軍事力を盾に権力を手中にしたのが「征夷大将軍」なのです。
テレビでおなじみの
篤姫はいったん公家・近衛家の養女になって徳川将軍家に嫁いでいます。徳川将軍家は公家の娘をお嫁にもらうことに終始。つまり、
将軍家より公家のほうが位は上なのです。
征夷大将軍は軍事力の長、これに対し、関白は文化力・摂関政治の長。
平安時代、天皇は
「律令(りつりょう)」という法律で、位(くらい)を事細かに定めました。天皇を頂点とし貴族中心に
律令政治を行っていました。(貴族とは公家のことを指します)
1位から5位が
「貴族」で約150人。
6位以下の下級官人は、約1万人。
そのうち、1位から3位までと4位の参議が
「公卿(くぎょう)」と呼ばれ、天皇の居られる清涼殿に上がれるそうです。公卿は、10人から20人です。
この公卿より大きな力をもつのが、
摂政と関白(摂関政治)。
「摂政」は、幼い天皇を補佐し
、「関白」は、成人の天皇を補佐する役目をもちます。つまり、
関白とは天皇に次ぐナンバー2なのです。
豊臣秀吉は、「関白」です。
「日本の100人豊臣秀吉」p10から―――――――――――――――――――
関白になるには、
藤原氏の出身である必要があったため、〜〜略〜〜藤原氏の流れをくむ
関白・近衛前久の養子となることに成功。関白の地位を手にすることができた。
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対し、
「征夷大将軍」とは
陸軍大将のような位で、主に京都から遠い関東中心に治める役目を持ちます。(京都は藤原氏や平氏が官職を独占。当時、源氏は京都から遠い奥州、関東に地盤を築きます)
征夷大将軍になるには、単に源氏の一員ではなく、嫡流でなくてはならない決まりがあります。
徳川家康は、二度家系図を改ざんしたといわれているそうです。
以下、「日本の100人徳川家康」p11から―――――――――――――――――
一度目は、まだ青年の頃、官位獲得のために関白・近衛前久と神祇官・吉田兼右の力を借りて家計図を新たにつくり、源氏の一員になった。二度目は、関が原の勝利後、〜〜略〜〜足利一族の吉良氏から、系図を譲り受け、源氏嫡流のポジションを確保。
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つまり、徳川家康は源氏とは縁もゆかりもないというのが真実だったのです。

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