関が原の戦い
天下分け目の戦いと言われていますが、実は違うのです。
豊臣秀吉の派閥内の抗争。秀吉死後、派閥の長になるための派閥内抗争だったのです。
簡単に言えば、
豊臣政権初代が豊臣秀吉、2代目が秀頼なのか家康なのかの抗争。
派閥抗争は、秀頼を担ぐ石田三成と徳川家康の間で繰り広げられました。
関が原の戦いでは東軍だった武将が大阪の陣では西軍についたり。
同じ豊臣派という派閥内でのできごとだからこんなことが起こったのでしょう。
「天下分け目の戦い」とされていますが、
これは徳川時代になってから
過剰な東西対抗意識から脚色(つくり話)されたようです。
以下は、「関が原の戦い」について Wikipedia にあった内容です。
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豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間の決戦。この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立した。
日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と豊臣派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれている。なお、東軍・西軍と呼ばれ始めたのは後世のことであり、豊臣の家臣同士の成敗合戦ということで、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。
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だから徳川家康は、日光東照宮に自分と同じ神様として豊臣秀吉を隣りに祀ったわけです。

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