先日和歌山県紀伊勝浦、そして太地町などを旅して来ました。今日は古式捕鯨という文化にそれを取り巻く人々について少し書こうと思います。
動物愛護団体 Green peace や映画などで一部欧米文化圏から非難される捕鯨の町太地町。そこでのかつての手モリ突きによる漁が「古式捕鯨」、そして画像はそのための船を玩具に再現し土産にしたものです。
古式捕鯨は39隻のこのような船で行われ、まず「勢子船」と呼ばれる18艘が鯨を追ってモリを突き、待ち伏せの10艘の「網舟」が鯨に網を掛け、6艘の「持左右舟」で鯨を左右から挟んで捕える、という連携プレーが古式捕鯨。その他、網の浮きに使う樽が流失してしまった際に拾う役目の「樽船」が1艘、捕鯨の道具や食料を運ぶ「納屋舟」が1艘、勢子舟破損の予備船「替舟」が3艘。39艘すべての舟に役割が与えられてました。船べりの極彩色のデザインはその役割ごとのものなのです。
(画像に、上記文章一部はBRUTUS Shogo Kawabataさんのコーナーみやげもん より)
そしてそんな古式捕鯨に関わって来た人々の歴史が現在もそこに暮らす住人の名字となって残ってるのです。
背古(せこ)先祖が勢子舟のモリ突きをしていた。
由谷(ゆたに)鯨の皮や骨から油を採取していた。
漁野(りょうの)勢子舟の乗組員だった。
筋師(すじし)鯨筋を抜き取り、弓弦などを作っていた。
遠見(とおみ)高い場所から鯨を見定め、狼煙を焚いて知らせていた。
実際に太地町を歩くとこれらの名字多いですし、おでんに入れる鯨のコロなどを土産に買うと生産者は由谷さんだったりするのです。この古式捕鯨に関わって出来上がった小さな集落、小さな日本がまだ息絶え絶えながら残っていました。
かつて最盛を極めた頃に思いを馳せると、それは昨今唱われ出してる「シェアリング・コミュニティー」鯨をシェアしあった優れた地域社会圏の前例がそこに存在していたのです。今ボクたちはここに来てもう一度彼らからそれを学ばなければいけないなと思ったのでした。
ってことで、Have a nice week, everybody!

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