閉まったままの店舗
以下はボクが購読してる都築響一さんの web magazine からの抜粋です。鳥取のシャッター商店街のことが書かれています。
http://www.roadsiders.com/ より
ボルゾイ・レコードの若き店主・前垣克明さんによれば、閉まったままの店舗を借りたい若者はけっこうたくさんいて、現に川端銀座あたりには少しずつ新しいカフェなども増えているが、問題はもともとの商店主がなかなか店を貸してくれないことだという。
これは以前にもシャッター商店街を取り上げたときに書いたが、大都市では閉店=破産=生活困窮というイメージがあるが、地方の商店街ではこうした図式がかならずしも当てはまらない。商店街が繁栄した時代に稼いだ店主たちが、郊外に家を建てて暮らしながら、ずるずると店を保持していたり、店舗の2階に住んでいるので、とりあえず店もそのままにしておくとか、さまざまに消極的な理由で、どう見ても売れない商品を並べたままの店が残っていたり、シャッターを閉めたまま2階で生活を続けているケースが非常に多い。
だから空いてる場所があって、借りたいひとがいるのに、いつまでたってもなにも始まらないという不可解な事態があちこちで生じる。「めんどくさい」とか、「なにされるかわからない」とかいうだけの理由で。これがいま、日本全国の商店街で起きている現実だ。シャッター商店街問題を語るとき、いつも悪者になるのは郊外の巨大ショッピングセンターだが、それは書店が潰れていくのを全部、ブックオフのせいにするのといっしょ。自分たちの側の品揃えの硬直化とか、サービスの悪さとか、営業時間の短さとか、そういうことにはすべて目をつぶったままで。
これからも鳥取の商店街では、なんとかフェアとか、なんとか産直市とか、そういうイベントがいろいろ開催されたり、アーティストと「コラボ」した珍妙なかたちのベンチが設置されたりするのだろう。でも、ほんとうに街を変えて、通りを開いていくのはそんな小手先の思いつきじゃない。郊外のショッピングセンターを潰すことでもない。駐車場を増やすことですらない。苦労を重ねながら自分たちの店を開こうとする若い世代を受け入れ、応援していくように、商店街のひとたちのこころとあたまを柔らかくしていくこと。それしかないと僕は思う。
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地方都市のシャッター商店街についての衰退の要因について記されています。これと同じ事がボクたちの住む河崎にも当て嵌まり、新たな店舗や若者のチャレンジに常に障害となって立ちはだかるのです。ボクは詳しくはありませんが、新道や高柳の商店街なんかもきっとそうじゃないのでしょうか?
ボクたちは伊勢に住んでてそこで商いなりを興すのなら、都市部にあるようなテナントビル物件を求めずとも「いまそこにある物件」を上手に個性として使うことの方が都会との差別化で地方都市伊勢らしいと思うんです。そういう思いの若者にはシャッター商店街や河崎の古民家だって魅力的に思え、そこでの夢を描くがしかし門は閉ざされたまま。
ボクたちは河崎という土地で様々なことに取り組んでいますから、何とかチャレンジしたい若い人たちのための仲介役になれないかと考え動くのですが、上記のような障害がそんなボクたちの前に立ちはだかるのを何度も経験して来ました。淋し過ぎます。
そんなフラストレーションも手伝ってついには自分で無理をしてボロ家を土地ごと購入しリノベーションしたのがネオ・ウメダです。3年前にリノベは終了しましたが稼働内容の充実はまだまだ道半ばです。ボクだけじゃ大変なので若い人と組んで今後もいろいろやりたいと思うので、何かアイディアのある人は遠慮せずに申し出て欲しいです。
http://takeshinakatani.jp/umeda/index.html
物件なんて買ってしまえば好き勝手にどうでも出来る、そういう BIGな人々(ボクは全然これにあたらず無理を押し通しただけ)だけが町での起業に参戦出来るなんて悲しいです。若い人でも自分の身の丈に合った規模で、伊勢の市場に起業し参戦出来るようになれるといいと思います。ボクがかつて住んだ80's NYのダウンタウンはまさにそんな感じで町が出来上がって行きました。そこだって最初は廃墟で、空き店舗ばっかりのスラム街だったのです。
今は見捨てられているような場所が人々のやる気と知恵で再生して行く。生活場所でありしっかり経済や地域文化に結びつく。ここが争点で、ボクたちEMELONでは何とかそこに風穴を開けられないものかと準備を少しづつ始めてもいます。
ボクは不動産業者さんが用意するような従来の店舗じゃ物足りなさを常に感じて来ました。駅前の空きテナントだけが起業や出店のための物件なんて、工夫も無ければ普通でそれほどおもしろくもないと思うんです。えっ、ここをこんな風に使ってこんなことやっちゃたんだ!なんてサプライズも欲しいじゃありませんか、そんなチャレンジ精神が町に活気を注ぐと思うんです。
そして、不動産物件に対して町の共有財産と考えられず、自分だけのモノでそれがいつかまた価値が上がり高く売れるかもなんて考えに陥ってるのもまた今の日本人特有のメンタリティーじゃ無いのでしょうか。物件を所有されてる皆さん、どうぞこころとアタマを柔らかくして、この町が楽しくなるようにプレーヤーとして参加してください。点々バラバラに人や家が点在する町よりも様々な人や店や暮らしや文化が集まってある町も楽しいと思うのです。
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今週の始めに80's NYでボクを導いてくれた先達アキロウ・田坂氏が天へと旅立ちました。彼は芸術にも一目あってボクの絵を買い上げてくれたり、アドバイスをくれたり身近な兄貴分でまた親友でした。彼もボクも住んだ80's NY East village の文化の中心にいてヘアー・サロンを開業し、ニュー・ウエィブに活気づくその町を彼提案の刈り上げヘアーで染め上げていたのです。そんな彼の周りには、世には出ていないけどおもしろいアーティストにミュージシャンにフォトグラファー、詩人にゲイカップルなどなどおもしろい人間が溢れていて、みんなで町のサブ・カルチャーを形成してたのです。そんなわりかし何でもありで、どうにでも変貌を遂げられる小さな町を、アキロウもボクもそして他の仲間もみんなで愛していたのです。
そしてボクは今も同じような想いで自分の住む河崎や、もう一歩拡げて伊勢という小さな町を見つめ考え、行動しています。
アキロウからボクは「人間、無茶を出来る精神を持っているかいないかが大事で、若さなんてのは二の次だ」ということを教わったと思っています。それは、年齢じゃない精神だ、まわりをよく見つめ知恵を絞るんだ、そこが老け込んじゃ終わりなんだということです。
上の文楽人形のアタマはアキロウがボクにくれたNY帰りの品で、アトリエに鎮座し毎日ボクを見つめてくれています。
左がアキロウ・田坂氏、右は先週家族で伊勢に来てたシゲト・鎌田氏。1989年に撮影、彼ら共々30代半ばですね。
双子のAくん、アキロウ、ボク、双子のBくん、アツシ(アキロウと共に店を多いに盛り上げた彼もまたボクの親友です)
ボクの中に生き続けて亡くなる事など決してないですが、アキロウ・田坂の冥福をお祈りします。また会いましょうね。

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