
生家1960頃

父・清吉 1965〜70年
生まれてからの18年間を外宮の真横(八日市場町)で暮らし、神宮の森を遊び場として育った。1957年くらいに両親がその借地を借り安普請の木造家屋(店舗兼住居)を建て農機具販売の商いを始めた。1960年に僕が生まれ高校を卒業するまでそこで3人で暮らした。そして卒業とともに上京して3年後くらいにその生家は取り壊された。父は松阪郊外の本宅に「父帰る」し母は伊勢に残るものの、家族生活を共にすることは無くなった。僕の両親についてはまた別の機会に書きたいと思ってる、ただひとつ父・清吉が強く伊勢という場に魅せられてここに移り住んだのだ。その後僕は1984年にNYに渡米し帰国したのが1992年今から20年前、以後同じ伊勢の河崎に暮らしているのはご存知の通りだ。

僕 1963〜64年頃
前置きは以上、今日は一定の場所にあるということ「場の科学」なんてお題で今想ってることを書きたい。僕の場合友人とそして仕事絡みなどでもこれについて語る局面も少なくないのだけれど、どうも上手に説明が出来ないでいた。町中育ちでかつての伊勢の活気を知ってるせいもあっての感情論に発展したりで、これではいけない説明が不足してるというか、伝えきれないというか……なのでこれは中々手強い問題だと思うけれど、負けじと整理整頓して少しでもそれについてまとめてここに記したいと思う。
一定の場所にある建造物や店舗など、そしてそれらと共にある人間そのものや、そういう僕たちの心についても……
まず、西行法師のこの有名な歌
「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」
鎌倉時代初期はじめて伊勢を訪れし西行が読んだものだ。この世の始まりがなにごとにおわしましたかは知るすべはない。しかしこの森とともにある神宮の建造物のたたずまいの中に、日本人の心の琴線に触れるなにものかがあったからこの歌を詠ませたのだろう。何が彼をしてそうさせたのかに想いを馳せてみる。想うに何かある特殊な「質」を持った「場」がそこにはあって、それが神域という場の持つ何か特殊な力を放っていたと察する。だから「パワースポット」なんて言い方するがここでは無用。
日本人の生活や生命の起源になる大事なものを何らかのカタチとしてその場に鎮座させる。カタチにしてそこに在る(存在する)ということは伝承や表記をも飲み込んだ総合表現のようなものだと思う。内宮・外宮が伊勢に鎮座・建造される前にも我々日本人は先人からの伝承を元に「古事記」「日本書紀」を表記として精神生活のベースとした。それは自然を畏怖し共存していく心でもあったんだろうと考えられる。
上の西行の文の一部そしてこれより以下Q&Aの文章、現代美術家・杉本博司さんのエッセイ(苔のむすまで)よりその一部を引用させてもらいました。これらが伊勢のことも絡めこのブログを記し皆さんにも読んでもらおうという僕の試みの発端になりましたので。
護王神社再建 APPROPRIATE PROPORTION
アポロプリエート・プロポーション(直島の家プロジェクト)
Q: 写真家だと思われているあなたが、なぜ神社を建てることになったのですか?
A: 写真家といっても水と空気、それと光を扱ってきました。建築も似たようなものです。
Q: アポロプリエート・プロポーションとは、日本語でどう訳したらよいのですか?
A: 神はある特殊な場所に宿ります。そのような場には、独特の比率があります。
Q: それは建築的な比率のことですか。柱とか梁の。
A: 比率とは、場のたたずまいのことです。
Q: ではアポロプリエートは、適切という意味ですね。
A: 空間が適切であるとき、日本語では「場をわきまえた」と言います。
Q: すると、「場をわきまえた、たたずまい」となりますね。
A: そうです、凛とした空気のことです。
これを最初に読んだ時、僕は奮えました。ずばり自分が育った伊勢や外宮の森のことが表記されてると思ったからです。そしてこの「場の科学」なんて題した拙い文章を自分でも書かずにはいられなくなってしまいました。
杉本博司さんは建築物を通して場所をもアートにしちゃうことの出来る達人です。彼はこうも言います「アートとは技術のことである。眼には見ることが出来ない精神を物質化するための。」素晴らしいです、僕も甘えずにそうありたいなんて思ってやっています(笑)
「場の科学」シリーズで数回に分けて記していくことにします。宜しければお付き合いを。

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