
Aporia watercolor on paper _2010 (23x30.5cm)
僕は回りから画家と見られることが多い、僕のキャリアの始まりが絵画だったからしようがない。世間と言うものは職業をきっちりと分類分けしたがるから、僕の場合は周りに対して「ねじれ構造」を生んでるのかもしれない。なので慌ただしくなってきたこの師走に、ここのところを改めて皆さんにも解りやすくまとめてみようと思う「アートって何だろう?」の特別編「僕って何だろう?」だ。
結論から記す。僕は興味があっておもしろいと思うものを表現しカタチにしたいために絵画(油彩、水彩、ドローイング、銅版画、水墨画など)を使う場合が多いということだ。絵画のスキルは今も続けながら磨いているつもりだが、これだけに打ち込み精進し求道し極めるという所謂日本の芸術家先生とは違う者になりたいのだ。
画家に執着して僕のことを見つめてる人々とお話しすると、どうにも息苦しさを感じてしまうのが正直なところだ。彼ら自身は僕を彼らの範疇(求道者=芸術家)に押さえる事で自分との距離を埋めたがってるのだろうが、僕自身は興味の赴くままにやっていたいのだ。僕は何だかそういう古来の芸術家から降りていたいし、別の道を新たに切り開いてでも歩んで行きたいのだ。気取って言ってしまえば「名人危うきに遊ぶ」名人じゃないが(笑)つまり、普通の人からはおかしく映る事が実はツボを心得た仕業である……なんて意だ。昔から一線から身を引きながらも正しくおもしろい事をやってる表現者に憧れる、何度も書いてるがマルセル・デュシャンを筆頭にね。
なので、サトナカだって伊勢うどんだってそんな中から生まれた僕の興味やおもしろさの対象だ。ネオ・ウメダも同じくなんだが、あそこまでいくとホント解らない人多いんだ。あれは僕が向き合ってみたかった興味深い教材だったのです。
そんな自分だが今もいろんな興味の対象と向き合ってる、おもしろいところでは鮨屋がある。友人Kくんの鮨屋開店に協力しているのだ。物件探しを始めたのが6月だったから半年経ったが、やっとこれだという物件に辿り着き、大家から内定が出たのが先週のこと。これから本契約、内装にと進んでいく。鮨屋は飲食店である訳だがそこで止まらず「日本の優れた文化装置を伊勢に作る」をスローガンにKくんと取り組んできたから、予想以上いや予想どうり店舗決定には時間を要した。駅前によくあるテナント募集の物件にこころ動かされるものが無かったために、テナント物件でないものをこじ開け大家さんに無理を頼んだ。それはKくんとふたりで僕たちだけが辿り着き、彼の店だけれど僕たちでしか作れない装置である鮨屋という劇場に仕上げるための、それしか無い手順だったと今は思っている。しかしそれもまだまだスタート地点に立っただけで、これから現場の創造だからして今後も気を抜けないのだ。
僕の中では絵を描くことと、今現在こうして素敵な鮨屋のイメージをアタマで作るということは同じことなのだ。しかしそんな僕のアタマの中のイメージをKくんに言葉で伝えようとするには無理が生じる。彼自身も当然アタマでイメージするからお互いにくい違いが生じる。絵に描いたり、設計図にできる前の段階だから意志やイメージの疎通に骨が折れ、酒の勢いも手伝って喧嘩まがいの議論になったりするから困ったもので、オレの馬鹿である。しかしモノを作ってる時は、絵を描いてるような集中力で同じく取り組んでる訳だから熱っぽいし、こういう摩擦を避けては通れない。浮かび上がった問題を放置し眼をつぶる事はしない。正面からそれと取っ組み合う。ぶつかって伝え方に不備があった事を反省し、前回より具体的に資料などを用意して改めて伝える努力をする。そうして積み重ねていくより方法が無い、モノというものはアタマの中ではイメージで、カタチになって始めて出来上がるのだから口や言葉ではイメージしか伝わらないし、そのイメージだって受け手によって全然違ってくるものだ。伝える努力をすることで最善に近づけるしか方法を知らない。よく安藤忠雄さんの本を読んでるとホントにこの人は建築家というより格闘家だと思わされるが、こういう建築的創造には付きまとい立ちはだかる障害なのだと痛感させられる。まあKくん共々僕たちみたいな不出来な二人が、何とか精一杯力を振り絞って出来る限りいいものを作り出そうとしてやってるわけだから少々の無理が生じるのはしようがないし自然なのだろう。
絵画制作は独りの作業だからいいとして、デザイン制作の作業は相手や相棒がいるから必ず摩擦による葛藤が付き物だ。ここを「はいはいそのように取りはからいます」とクライアントの意志にだけ任せるだけでは結果いいものは生まれない。ここが正念場なのだ。そして絵画制作は自己の中を振り子のように行ったり来たりする瞑想的な作業、デザイン制作やクリエイティブという事は相手や対象を前に自己セラピーであったりリハビリテーションめいたものを孕んでいるのである。そしてそんな仕事の中で自分が変わらなければならないといけない局面は多くの事を教えてくれたりするのである。デザインの作業は人に教える事と言っても過言じゃない、それと同時に自分が学ぶ事でもあるわけだ。そしてそれらが整い第3者お客さんとなる人々まで巻込み、彼らに僕たちのやる事の方向や意志が素敵に届いた時に今回の鮨屋という劇場の成功を見るのだろう。
最後に僕は安藤さんのような格闘家を愛す、何故なら闘いの後は傷つく、その傷を癒す事で前進する。それがモノを創る人間が背負わなければならないリスクだからだ、文句だけ言うのは簡単だ。それは匿名的で背負うリスクも無い。リスクを厭う人間におもしろいモノなど作れるはずが無い。つまらないものはつまらないと言いたい、それが言えない世の中は結果人と人が不自然に譲り合い敬遠し摩擦を避けて一見成立してるような環境を生むだけのことだ。仕事として頼まれた事を体裁良くこなすことと、やれるところまでやってアタマひとつ抜け出たモノを生み出すか?ふたつとも同じく仕事なんだけれど、これらの選択の場面を強いられたりするし、モノを作る人間としては重要な局面だ。結局赤点を恐れずベストだと思う自分の選択をすることが創造であることを僕は信じて疑わない。
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Aporia
哲学において、アポリアは哲学的難題または問題の中の一見解明できそうにない行き詰まりのことで、もっともらしいが実は矛盾している前提の結果として生じることが多い。さらにアポリアは、そうした難題・行き詰まりに困惑させられた、つまり途方に暮れた状態のこともいう。(Wikipediaより)
上の絵について、タイトルは「アポリア」上記文章との脈略は無し、というより極端に逆。文章では「やる気」を書き、絵では「難題・行き詰まり」を描いていてこんなタイトルを付けてみた。
人間、素直にものごとを捉える事は大事だし基本だ。しかし僕は表現をしなければならない立場の人間だ、それはひとつのものごとの長所も短所も見つめた上で自分はこう思うという事をカタチや仕事にするのが表現だ。時には喜びや賛美の側だけでなくて、それは悲しみや辛いこともにも眼を向け提示しなければすまない場面もある。この絵を直接に説明するものでは無いけれど、皆さんにも考えてみて欲しい事なのでここに記す。今みんなが考えなければならない、大切な日本の事だから。
そして最近、ダイナミックレンジ(音響信号の最強音と最弱音)な仕事をしないといけないなと強く思うのだ。
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そして、ここからもう一度話しを切り替えることにする。
この土曜は Christmas Party をEPSで行ないます、ここは大いに楽しくやりたいと思います。500円くらいのギフトを持って来てくれた方は交換会に参加してもらえます。そして、ぜひお洒落もしてきてください。そしてそしてそんなゲストの方のお一人に下の絵(原画)をプレゼントしちゃおうと思います。選考は僕の独断でお願いします、ヨロシクね。
http://www.emelon.net/eps/index.html


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