先日テレビで歴史秘話ヒストリアという番組を見ました。法然と親鸞の特集だったのですが、彼らの生きた時代の一般人の生涯というのは戦や疫病や飢饉に溢れかえって、何の救いも愛も無い時代で、人々の考え方の中にも報われるのは位の高い人や力やお金のある人だけというものばかりでした。
だからこそ、法然や親鸞の訴える「専修念仏」(南無阿弥陀仏という名号を唱えさえすれば救われる)という思想は革命的で爆発的な普及をしていったわけです。その思想の中で「仏様」というものはどんな人に対しても「平等」に救いの手を差し伸べられるという、今では当たり前のことですが、当時としては画期的な教えが含まれていたようです。
でも、現代はどうなのでしょうか?仏様が全ての人に平等に救いの手を差し伸べられているということは誰でも知っていることになりました。しかし、その本当の意味をわかっている人がどれだけいるのでしょうか?
人の中に「仏性」というものがあまねくあるとするなら、全ての人は全ての人に対して平等に愛の心を持って接しなくてはならないのだろうと思います。そういう厳しい教えも含まれているのだと考え直さなければならない時代が来ているのだろうと思うのです。
自分のことだけを考える人が多すぎるように思います。仏様の心を勝手に拡大解釈して、甘えているのかもしれません。まず、自分を律すること。他人のために何か出来ないかとまず考えること。それが人の心の中の「仏」を導き出すことになるのかもしれません。
救われたいと願うなら、まず自分を自分で救う道に立つことなのだろうと思います。それは仏に甘えず、自分の中の仏を発掘することなのだろうと思います。

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