阿修羅というのは仏法の中では仏を守る天部衆の一柱に数えられているが、悪鬼・悪神という面もあるように人に記憶されている存在です。
ただ私が霊界から教えられた「阿修羅」という存在は、一言で言うなら「同じ事をし返す存在、心」ということのようです。
人の心の中にある「憎まれたら憎み返す」「殴られたら殴り返す」「ののしられたらののしり返す」そういう部分が「阿修羅」であると教えられました。
それは「愛されたら愛する」「微笑まれたら微笑む」「優しくされたら優しくなる」ということでもあります。
人の心の他に対しての「イコール」で対応してしまう心の動き。これが「宿業」というものなのかどうなのかはわかりませんが、「争い」や「戦争」の元にもなり、「仲が良い」事や「平和」の元にもなりえるものだということは何となくわかります。
誰の心の中にも存在する「システム」のようなものが「阿修羅」というものなのだと教えられました。
有名なキリスト教の教えはこの阿修羅を無くそうとする事だったのかもしれません。でも、未だにそれは成功しているとは思えません。それは人が「知」というものを頼っている限り、「知」から阿修羅がエネルギーを得ているからなのだと思います。「知恵」というのは人にとって他の生き物と区分される唯一のものですが、それが人という種に「阿修羅」という「宿業」を与えているのかもしれません。
これは、とても深く難しい命題です、これからも折に触れて熟考していかなくてはならないと思っています。

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