夏休みの宿題はぎりぎりまでやらないタイプでした。本当にぎりぎりの三日前まで遊び呆けていることが多くて、「どうしょう・・どうしょう」と思いながらも毎日遊びまくっていました。
だから工作の宿題なんて、やっつけ仕事のいい加減なものしか作れなくて、自由研究なんかはいつも「朝顔の観察日記」で済ませていました。
何をして遊んでいたのだろう?蝉取り、ザリガニ取り、魚釣り、探検、冒険、プール遊び、近所の児童館への出張遊び。やる事は夏休みの宿題以外にいっぱ〜いあった。
大人になって我が子が夏休みの宿題をどうするか見ていて驚いた。娘は最初の一週間で全部やってしまった。それから遊んでいた。女の子だからこうなのかと思い、家内に聞いてみたが家内も私と同じ「ぎりぎり派」だった。この娘の「夏休みの宿題」タイプの違いに私は大いに驚いてしまった。
社会人になって、夏休みはなくなり、その代わり試験や宿題もなくなった。そして、経験を積んで「ぎりぎり派」からいつのまにか脱却していることに気づいてしまった。大人は「ぎりぎり派」にいつまでも所属しているわけにはいられないらしい。もしかしたら「ぎりぎり派」というのは「子供の特権」なのかもしれない。夢中になるものを沢山沢山持っていることの証明なのかもしれないと、今、改めて思います。

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