表現ではある。クソでも最低でも
暴力でさえ、差別ですらも、表現ではある。
そんなものはアートではない
という批判は意味を持たない
どれだけの実害が発生して、どれほど拒絶すべき事なのか
突きつけていくしか、ないだろう。
表現の自由だといって殺人をしてもいいのか?
みたいなことを言うひとがいて、
表現の自由というのは殺人してもいいという意味だよと思う
自由というからには自由で、どこまでがセーフなんて話はない
表現のためにはなんでもしちゃうけれど
殺人とか公序良俗に反するのは迷惑だから法の下で罰するよ
っていう順番だと思う
法律で裁いちゃうと、自由が制限されてるようなもんだけど
そこはもう迷惑だから、しょうがないというか
あくまで「表現」を規制するんではなく
結果として大きな不利益があれば社会的には罰します
という順番になるんだと思う
「こんな表現はダメ!」と指摘したところで
やっちゃうひとは、やっちゃう。
パレ・ド・キョート/現実のたてる音 という現代アートの企画展で、鳥肌実氏の演説、及び肉体、存在をマテリアルとして使用する展示アイデアがあって、それを問題視する意見があって、鳥肌氏の出演は取り下げられた。
どうなんだろうね
右翼演説キャラがシャレにならない時代になった、は言えるにしても
冗談なんだから大目に見ろよ、には違和感があって
キュレーター側は冗談で企画したわけではないだろうし
鳥肌さんの、あの演説も「冗談」とは呼びたくない気持ちがあって
これは僕が「笑い」に対して聖性を感じすぎているからなんだけど
冗談には、やっちゃいけない冗談があっても
ボケには、やっちゃいけないボケはない
と思っていて、すなわちボケを尊いものと考えていて
ボケの中には倫理を飛び越えているから面白いという種類があって
でもそれには「笑いになりうる範囲」があって
はみだしたら「シャレにならない」わけだけど
ボケには、シャレにならないとこまでやる、ていうボケがある
特にカルト芸人は笑いになりえない範囲まで行こうとする
鳥肌さんはカルト芸人だった
新宿ミニホールFu- で集客30人規模のイベントに出ていた時から観ていたけれど、もちろんあの時はカルト芸人だったし、今も
芸人なんだろうと思いたい気持ちがある
国粋主義者風ネタを続けていたら本気の活動家になってしまった、という説を僕は信じていなくて、本気になってしまう、というボケだと捉えている
人生を棒に振ってみる というボケはありえる
本物の活動家と一緒になってヘイトスピーチを行う、というボケは
笑いになりえないどころか人道的な問題があって犯罪に近しい行為で
スベっている。
スベっている、という言い方で批判したい。
「笑い」であったら犯罪はNG(笑えないから)
でも「カルト芸」の世界では犯罪すら許容してしまう
許容してしまうというか、やってしまう、ゾーンがある
「芸術」も似たような考え方があって、特に一昔前の
前衛アーティストは「前科が付いて一人前」くらいの言い分だった
そちら側から見ると、今回の取り下げはぬるい、と。
苦情に屈せず思い描いた通りの展示を実現しろよ、と。なるかもしれない
今回の展示は取り下げなければならないほど反社会的なのだろうか
ヴィレッジヴァンガードから鳥肌実関連書籍が消えたのは理解できる
今のヴィレヴァンは誰でも気軽に出入りできる店なので
そういったゾーニングは必要だろうけど、今回の展示は
有料で観たいひとだけが来場する形式だったわけだし
そこで鳥肌氏が、どんなパフォーマンスをするのか
差別的な表現が含まれるかは、分からない(たぶんあるけど)
そういった状況でも演説することができないとなると
どんどんライブできる場が限定されていくけど、逆に
そうやってレア感やカルトスター性を演出するみたいな
炎上商法要素もあるかもしれない。鳥肌さんにとって、いいのかも
まあ、それはビジネスな話で表現とは別な話で、というか
「笑い」とか「アート」とか、なんにしろ名称に過ぎない幻想で
事実としては誰かを傷付けるパフォーマンスを、行っていると。
多かれ少なかれ、すべての表現は何かを踏みつけてしまうだろう
以前、ブログに書いた大橋仁さんの写真の件を思い出していた
http://yellow.ap.teacup.com/lemon/954.html
あのとき、友人という立場で擁護発言をしていた七尾旅人さんに
僕は嫌悪感を抱いた。
鳥肌さんと僕は友人ではないし、擁護発言がしたいのではないが
芸人としてやってるんだろうな、とは思う
思想なんか、ないんだと思う
からっぽのはずだよ。あのひと。
今一度、鳥肌さんの
ステージを観に行きたい
どんな生き様を魅せているのか
お金を払って拍手を送りたい
一握りの敬意と、その8倍の軽蔑を持って

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