世田谷区教育委員会主催の
ビッグバンドジャズ体験ワークショップ、発表会のライブ中に
世界的ジャズトランぺッター日野皓正氏が参加生徒(中学生)にビンタした。
全員でソロを回していくべき場面で、延々と身勝手にドラムをプレイし続けた生徒に対する「行き過ぎた指導」だったと説明があったが
現場の映像が公開されて「暴力はいけない」という声が大きくなる。
ビンタを受けた当該生徒が「僕が悪かった」とコメントを発表したのちにも
関係者や目撃者からの証言などをもとに様々な意見が飛び交った。
日野さん本人のコメントも出て、僕は
「師弟としての信頼関係は成立している」と感じた。
まず、ここの解釈が違えば話は違ってくるし信頼関係がないならシンプルに傷害事件なのだが
次のポイントは「信頼があれば殴っていいのか」
親や恋人、友達、先生、など、とても近しい関係のひとが、強い気持ち、愛を持ってふるう暴力は肯定されうるか。
答えは、No だろう。
どんなに信頼があっても、どんなに深い関係性があっても、暴力以外の手段で問題を解決しなければならない。
一般的には。当然だ。
けれど、それはあくまで「社会」としてのルールであって
現実には、それぞれ個別の事情がある。
そんなひとつひとつの事情を全て確認してられないから「社会」としては、ざっくり「体罰、オールアウト」と決めるしかない。
学校教育法の第11条で明確に「教員は、体罰を加えることはできない」とされている。体罰教師ならクビになる可能性がある。
しかし日野さんは教員ではなく、学校教育法の規定範囲外である。
刑事事件としても、たぶん立件されないのではないか。
ここは詳しくないので、有罪だとも無罪だとも言えないものの
何らかの処罰、少なくとも公共の文化企画講師は辞する、
くらいは必要なように思う。
一方で
「個別の事情」について僕は書いておきたいことがある。
ここまでは、常識的な話をしたつもりでいるのだけれど、ここからは浮世離れしている感覚の話になるのかもしれない。
今回の件
「教育」としては完全に間違っているんだけれど
「表現道」としては、僕は支持したい。
僕自身、師匠を持つ身として
この関係性は社会から悪と言われようとも絶対に擁護する。
ビンタ映像の中で日野さんは
「お前だけの舞台じゃねえんだ」と叱っていた。
この部分が気になっていて、ジャズの自由さ、逸脱をクールだとする思想からしたら
予定調和を壊す生徒の演奏はアリなのでは?という疑問。
思い通りにいうことをきかない生徒にイラついて殴っているのではないか、なんていう意見すら世の中にはあったけれど
日野さんの言葉に
「ジャズは会話、コミュニケーション」
というものがある。音楽全般そうだとも言えるけれど
特にジャズは即興演奏が基本なのでコミュニケーションが重要だということか
スリッパのエピソードも印象的だ。
合宿中に生徒たちがスリッパを脱ぎ散らかしていることを日野さんは
強く叱った。「他の人の気持ちを考えろ」と。
後日、スリッパが綺麗に並んでいるのをみて日野さんは
「これがジャズだよ」と涙したという。
滑稽にすら感じられる話なんだけれど、日野さんは真剣で
普段から礼節を大切に重んじるような人物なのだ、と。
ここからは僕の解釈
ただただ自由、なんでもありで逸脱しっぱなし、では成立しない
周りを見て協調性を持ってコミュニケーションしたうえで
最終的には逸脱できるようになれよ。ということなのかと。
ジョン・コルトレーンが、あまりにも長いソロを演奏し続けるので、観客が野次を飛ばし始めて最終的に会場の照明が消されても、まだ演奏を続けた
という伝説があるけれど、
日野皓正はコルトレーンにはビンタしないだろう。
それは肩書に臆するから、などではなく
中学生なら弱者だから強気に出られるというわけでもなく
生徒が「まだスリッパも並べられないような段階」なのに、コルトレーン気取ってるからだと思う。目を覚ませ、と。
「他の生徒に手を上げたことはない」とも語っていて、これはもう
えこひいきというか特別に見ているぞということであって
当該生徒は被害者どころか、優遇されているとすら言える。
他の生徒には「体験学習としての教育」程度に接しているなか
彼だけはミュージシャン、ジャズマンとして扱ってもらっている
だからビンタして頂ける!!! くらいの勢い。
ぜひとも一流のジャズマンになって恩返ししてほしい。
こんな古い野蛮なスタイル、世間様には受け入れられないとは分かってる。
それでも2人の間に師弟関係が成立しているなら、誰にも否定できない。
公共の企画で、おおっぴらになってしまったこと
そこが問題を拡げている。
『暴力はいけない』あたりまえなんだけど
それを「当たり前だから」と疑わなくなった状態こそ暴力的だと思う。
当該生徒に、本当に深刻なダメージを残すのは
あの「ビンタ」自体よりも、報道による批判の嵐だと思う。
『体罰容認は絶対にダメだ。こんなことを許したら死ぬ生徒が出てくる』
それは出てくる、今までにも、これからも、体罰に苦しむ生徒はいるが
「僕が悪かった。ドリバン(ワークショップ内バンド)企画が続いてほしい」
という生徒の願いを無視して、彼らの未来を殺してしまうおそれは?
一般論だけでは子供たちを守れない。
ポリコレ棒
というワードが思い浮かぶ
良くない意味で使われている言葉だが
1ミリも譲らない頑固な人々を見ると
ポリコレ棒は柔軟性のない素材で出来ているな
と実感してしまった。
アメリカの状況をみて
きれいごとを排して本音をまるだしにしたら非道いヘイトクライムが加速している
やっぱりポリティカル・コレクトネスは必要だ、大切だ
と僕も考えているけれど
まず疑うこと、自分と逆側にいる人の意見を理解しようとすること
そこを忘れてしまっては地獄の叩き合いしか残らない。
僕の意見も「日野さん側」に寄り過ぎだとは思うけど、これは
教育というより表現(ジャズ)の世界を尊重した結果であり
そこを理解してくれる人とは「会話/コミュニケーション」可能
日野さんを強く批判する人の中にも
(でもヒノテルのプレイは好きだ…)
とか書けちゃう余裕のある人の意見はマトモだった。
『良い体罰なんてない。体罰以外で効果を上げることのできない、力のない指導者がいるだけ』
これは、ごもっとも。と思った。
日野さんも「これからは手を上げない」と非を認めた。
「でも、バカヤロー!は言うよ」とも言っていた。
ポリコレ棒の人たちはバカヤローもNGだったりするでしょう
物理的な打撃だけが暴力じゃない、大声、怒声の圧も充分に暴力
そうなってくると、いよいよ一律に全暴力を排除するのは至難だよ
基本は、一般論は暴力禁止だけれど、個別の案件ごとに柔軟性を持たなくちゃ
『反暴力』が暴力的
なのは、僕にとっては複雑な気持ちになる現実
なぜなら『反差別は差別的』という言い方が大嫌いだから
差別を許さないことは差別ではないだろう、自由を捨てる自由は認められないだろう
それでも、やはり暴力を許さないことは暴力に思う
公共の場だからこそ、の話題を もうひとつ
https://note.mu/red_sea/n/nfcb9905fbc87
普段の、ていうか、ある意味 閉塞的な
「詩のイベント」だったらセーフなんですよ
演劇、アート、ダンス、あたりなら100%セーフで
ライブハウスでの音楽イベントでも99%セーフ
野外だと、アウト ですよ
手短に終わらせて逃げたら捕まらないけど
きっと1時間やってたら警察来るからセーフじゃない
で、今回のやつは詩のイベントにしては
わりと閉塞的ではない、開かれた企画だったわけだけども
そっち側へ開かれちゃいましたかー?っていうね
ちょっと想定外でしたわー??っていうね
逮捕は、おかしい
っていう声もありますけれど
通報されたらアウトの可能性がある
という点は覚えておかなきゃな、と教訓を得ました
ただ、違法でもなんでも
やるときは、やる っていうね
日野さんじゃないけど、
人前でもなんでもビンタする!っていうね
表現だから、無罪
ではないけれど、やる! っていう
『他人の理解をこえたところに狂気があります。表現者やアスリートは間違いなくまともじゃない部分がたくさんあります。それでも構わないんだ、この時間は戻らないんだと、本人たちは言います。周りの人間は、他の人間にも、社会にも迷惑がかかる、おかしいから止めてくれと言います。踊る阿呆に見る阿呆に、踊らせてる阿呆もいるし、祭りを知らない阿呆もいると思うんです。どうしますか』
『誰一人傷つきたくない、傷つけたくもないはずなのに、それでもステージに立つでしょう』
ステージの上での出来事は、すべて表現です
傷ついた人の作るものは美しいが、そもそもその人が傷つくような状況になんかならなければよかった、そんなもの作られなければよかった

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