ネタばらしは面白いかもしれんとよ
てことで、ちょい前の日記「bot」での
魔法にかかりにくい男の子、魔法にかかりやすい女の子
の正体をバラしますと、うちの会社のひと、です。
ぼくの勤めている職場の飲み会があって、営業の男の人と
社長夫人がディズニーランドについて話していて、社長夫人は
ディスニー好きらしく「魔法にかかっちゃうの!」と熱弁していたけれど
営業のひとには、まったくさっぱりちっとも良さが伝わらなかった。
ていう一場面をモチーフにしています。
「それって、現実逃避をしているのじゃないかい」
「そうだよ。」
女の子は、しれっと応えて、さらに
「なんでもそうだよ。ぜんぶ、そうだよ。」
と、続けた。
ていう場面なんかは、まんま実話です。けど
それは、僕にとっての実話であって、ブログ読んだあなたが
もし何かを想っていたとしたら、それこそがあなたの実話なので
安心です。ちゃんと1割は嘘を書いています。
今度の日曜は、コトナ企画の「30祭」だけれど、もう始まってるかも
ていう気分になっています。「30祭」のイベント、自分のライブは
もう始まっている気分がしています。お客さんに観ていただけるのは
ハポンでの僅かなステージの時間だけど、もう始まってる感じだ。
今日、気付いたけど、4月から始まってるかも。なんなら
去年から始まってる。とか言い出すとキリがなくて、17年前!とか
29年前とか、前世からとか、なっちゃうから。くだらねえ。
はじまりは分からんよ。気付いた時、ふりかえるけど、もう分からん
いつだって取り返しがつかなかった。手遅れな事ばかりだった。
そんで、おわる。そんで、新しく、はじまる。そうやって、何か
新しく始まった人を見るとき、ぼくは常に「あっそう」ていう
冷めたスタンスで居たけれど、自分がその立場に立てば感じる。
終わるべきだし、始めるべきだな。と。でも、それがいいという事と
それを実行する事の間にも隔たりがあって、越えるエネルギーは要る
だから、きみに、電話したり、した。繋がらなかった。
さらなるネタばらしを続けるなれば、そろそろ違う話をしたほうがいい
っていうのは、ずばり「桜井晴也の話をやめようかな」ていう意味だ。
それを踏まえて、桜井晴也の話をやめよう。と思うのですが
たとえば誰のこととは言いませんけども、僕の好きな作家がいまして
そのひと、どうやら文章がへたくそだな! と、僕は気付き始めた。
散々、そのひと「俺の文章が、へたくそなだけです。きしゃー!」とか
言ってたのに、ぼくは無視して、おもしろいなあ、へたくそじゃないなあ
なんて思ってきたけれど、たしかに、どうやら、へたくそだな。
絵だったらデッサンが狂っているとか構図が変とか、写真だったら
ピントが合ってないとか光が綺麗くないとか、みたいな感じの
小説としての技術的な素養が、くそで、ごみなんだろう。
でも、ごみくずを愛せないことはなかった。
ぼくは、そのひとが好きなだけだった。好きだから、好きなだけなのに
好きだから、文章が優れているように錯覚して、やたら誰かに薦めたり
してばっかりいては、しっくりこない反応ばかりを頂いてきた。
思えばそれは、聞いてる側からしたら、のろけ話だろう。きっと
好きな人の好きなとこを聞かされてるようなもので、きついものだった。
もっと「文章がうまい」とか「着眼点が斬新」とか「ストーリーが泣ける」
だったら、ひとに薦められるのだろう。ぼくは「このひと、好き!」しか
言ってなかった。そりゃ、ひどいもんだった。ごめんね、香苗ちゃん。
美しいことと、好きだということには関係がなく
文章が優れていることと、好き、も別だった。
じゃあ、いったい何を、がんばるんだろう。 ぼくは
好きになりたいって思うし、好きになってもらいたいけど
技術を磨くことは、全く見当違いなんだろう。たぶん、もっと
自分らしく、あるしかない。とても自分らしくあって、それでも
愛しく思ってもらえないなら、絶望するほか、なにもない。
わざわざ絶望をふやしても仕方ない って気もする一方
絶望をふやしてみるってのも一興 かも、とも、思うよ。
絶望することはよくないこと、と決まったわけじゃない。
宇多田ヒカルが年内で音楽活動を停止。人間活動に専念。
どういうことか。表現と生活を、分けてしまっているのでは。
宇多田ヒカルにとって、曲を作ること、唄うことは人間活動だったはず
って思う。人間として唄っていたから、素敵だった。
宇多田ヒカルは、好きだ。いっちばん最初から気付いてたけど
あの子、やばいじゃないか。なんだっていいけど、唄わなくなるのは
ぜんぜんいいけど、しあわせでありますように。
おだやかな暮らしなんか、あるわけないだろ。
って、スナフキンが唄ってた。 bot より。

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