我々の年代でノーベル賞を取った学者といえば江崎玲於奈さんのノーベル物理学賞が印象深い。
その江崎玲於奈さんは
「日本人は英語と数学ができると頭がいいと思っている。」
と言っていた。
おそらく何十年たった今でもその風潮はあまり変わっていないだろう。
人間には様々な才能があり、それぞれ尊重しければならないし評価してあげなければならない。
運動ができる、絵がうまい、歌がうまい。素敵な文章が書ける。
すべて素晴らしい才能である。
ただ、それらの才能はとびぬけていて、一般から評価されないと生活していくことができない。日本では特にそうであろうと思うが、経済レベルの低い国ではもっと顕著であろう。
評価をされる側で考えると、自分にとびぬけた才能があるかどうかわからない時には世間一般の評価に迎合し、妥協することも必要である。
迎合とか妥協とかいう言葉はあまりいい印象ではないかもしれないが、要は相手の立場や気持ちになって考えて行動するといったことと同意ではないだろうか。
サッカーにおいてもとびぬけたスピードやアジリティ、パワーがない場合はより多くのしっかりした技術が必要になってくる。
一般社会とこのあたりは一緒である。
江崎玲於奈さんの「英語と数学」を学生における「学校の勉強」に置き換えるとわかりやすい。
体育や美術、音楽の才能や技量はきちんと評価してあげなければならないし尊敬に値する。
しかし、それらにとびぬけた才能が見いだせないものはサッカーにおける「技術」と同じ意味を持つ、いわゆる「勉強」といわれるものをコツコツと積み重ねる必要がある。
迎合であり、妥協ではあるが、より多くの人、世間一般の人の気持ちを理解すると同じような意味で学校の勉強をしなければならないのではないだろうか。
サッカーの基本練習で面白くないことを一生懸命できる選手が練習の意味をきちんと理解しているのと同様に、学校の勉強もきちんと意義を理解していればつらいものではない。(結構つらいとは思うが。)
先日息子とそんなことを車の中で話し合った。
受験は失敗していても、そのあたりはわかっているようだ。
受験生の夏、本質を見つめて乗り越えてもらいたいものだ。

0