「いただきます」という言葉って日本特有のものらしい。
食事を作ってくれた人だけではなく、食材を作ってくれた人、そして食材そのものの命をもらう事に対して感謝をする、そういった習慣は海外にはあまり無いらしい。
素晴しい習慣であると感じるとともに、自分以外の命を奪わなければ生きていけないある種、「原罪」とも呼べる行為を伴っているのも否めない。
スポーツにおける原罪は、敗者を作ることだろうか。
勝負である以上、必ず勝者と敗者が生まれる。
勝者は時によっては戦う相手の夢や、場合によっては選手生命までもうばう事がある。
だからこそ、真剣に取り組み、相手に対して敬意をもって、そして敗者に対しても自分の成長の糧になったことや戦ってくれたことにに対して感謝しなければならない。
朝青龍のガッツポーズが問題視されている。
アマチュアスポーツでも、たとえば野球でホームランを打った選手のガッツポーズが問題になったことがある。
嬉しさをあらわす事はある意味当たり前の行為かもしれないが、相手を無視して勝ち誇ることは、敗者に対しての尊敬も何も無い。
これは、国籍や文化の違いといったものではなくどこの国でも一緒なのではないだろうか。
東京オリンピックの柔道でヘーシンクが優勝した瞬間、喜んで興奮したコーチが駆け上がろうとした瞬間、「まだ礼が終わっていない」という意味で勝負がおわっていないとコーチをたしなめたのは有名な話。
外国人にもそういった文化を理解する事はできるし、対戦相手をリスペクトする気持ちはあるはず。国籍や文化の違いではなく、個人レベルの問題だと思う。
スポーツの指導をする上で、スポーツ選手を育てるのか、スポーツを通じて人間として立派になることをめざすのか?
出来ることなら両方をめざさなければならないだろう。
人間的なものを重視しているからといってスポーツそのもののレベルが低い事は単なる言い訳に過ぎない。
スポーツの部分だけを追及すると、人間的な部分を忘れてしまいがちだ。
伝えなければいけないことはたくさんある。
もう少し時間がほしいといったら言い訳になるだろうか?
両立しようと思うとどちらも中途半端になりがちだが、妥協せずにやっていきたい。
麻生総理ではないが、軸がぶれないようにしなければならない。

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