もしかして生まれて初めてと言ったレベルの暖冬で、喜んでいいのか悪いのか?
地域経済等を考えた場合手放しでは喜べないんでしょうけど、子供たちの間でインフルエンザもさほど流行せず、早い時期にグラウンドでさっかーできそうだったりと、温かいおかげで嬉しい部分もたくさんあるようです。
年度替りが近づいてきて、フットサルの大会があったり等、子供たちのモティベーションが上向く季節ですが、指導する側として、モティベーションを年間とおして高い状態にしておくって事は結構難しい様な気がします。
モティベーションを高くするものの要因として、“大会、試合”“試合に勝ちたい気持”“試合に勝つことによる自信”が中心のチームって多いと思いますが、果たしてそれだけに頼っていいものでしょうか?
小学生の場合“評価(褒める、重要なポジションを与える)”“親やコーチの熱意”“楽しさ”といった部分が非常に重要な気がします。
大会や試合を目標に、それに向かって練習し、勝つことによって自信を持つことは非常に大切かも知れません。しかし・・・
小学校の大会などを見ているとそれにこだわりすぎて、チームの中でいわゆる“上手な子”中心のチーム作りであったり、親やコーチの価値観や評価も一番わかりやすい“勝利”に偏っているチームが少なくない様な気がします。
たとえば、練習は一生懸命やっているが運動能力が低くてあまりうまくできない。うまくできないから試合には出れない。出れたとしても、練習試合や勝敗に関係ないところでしか出してもらえない。その結果、「自分はできないから・・・」といった意識が生まれる。評価されていないから面白くない。とりあえず、みんなが行っているからやめはしないけどあまりやる気が無い・・・あまりやる気が無いからできる子との差が広がる。コーチの評価も「あいつはやる気が無いから」という評価になる。その結果、やめちゃおうかな・・・
小学生レベルでは“上手な子”=“運動能力がその時点で高い子”といった図式が多く見られます。しかし、長い選手生活を考えたときに小学生の時点で運動能力が低くてもその後のトレーニングで開花する選手ってたくさんいるはずです。そういったことを考えるとモティベーションを高めるために、試合、大会のイベントにその要因を求めすぎることって、実はすごくもったいないことの様な気がします。(もし、サッカーの秘めたる才能が無かったとしても決して人間として価値が下がるわけでもないと思いますし、サッカーの能力だけでそういった部分の評価を下すことは間違っていると思います。)
我々、スポーツの指導をするものの務めは、いかにして子供たちの継続的なやる気、モティベーションを高めてあげることができるかということだと思います。そういった面では、選手同様、指導者側も難しい道、厳しく険しい道をあえて選んで歩くことも必要なのではと、近頃考えるようになりました。
後ろで寝ている娘にも、テストだから勉強するのではなく、“知識をつけることが楽しい”“その先の目標があるから勉強する”といった気持ちが出てくるといいのですが・・・
そういったモティベーションを高めてくれることを、“勉強の指導者”=“学校の先生”に望むということって・・・無理でしょうか?

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