我々にとって究極のテーマ?
「運命との付き合い方」
( 今年6月購入 ) 土屋賢二 「年はとるな」 (2017年エッセイ集・文春文庫)より
第36編/60
人間の力には限界がある。それに気づいた人類がまずしたことは格言を作ること
だった。「人事を尽くして天命を待つ」だ。この格言はさまざまに解釈された。
あるひとは、競馬や宝くじの必勝法を全力で研究し、後は、家族に叱られるのも含
め、運まかせにした。
また、ある人は「人間が全力を尽くしても天命によってひっくり返される可能性
があるなら、全力を尽くすのはバカらしい」と考えた。
天命が最終決定権をもっているなら、精魂こめて作った豪華なケーキや戦艦大和
の精巧な模型を、数人の子どもと犬と熊がいる部屋に入れ、指をくわえて見てろと
言われるようなものだ。だが人間にもプライドがある。運に翻弄されてたまるか。
こう考えた人間は、試行錯誤の末、神社や寺院を建立し、神、天、仏との取引を考
えついた。問題が起きると、為政者は神社や寺院を建てて祈祷することによって解
決しようとした。ちょうど現代の為政者が問題が起きるたびに委員会や役所の部署
を作って解決しようとするのと同じだ。
祈祷に頼る政治が悪いとは限らない。実際、祈祷や占いに頼る太古の政治と比
べ、現代の政治が改善されたという実感はない。太古の昔のことを知らないからか
もしれないが。
現在、神社などで願い事をするのは個人である。だが神との取引は難しい。取引
相手がどんな相手なのか分からないからだ。願い事をかなえてもらうのだから、適
正マージンを払うのは当然だが、賽銭の額がわからない。五千円を手に入れるため
一万円札を賽銭箱に入れる人はいないだろうが、いくらが適切なのか。
だいたい賽銭と引き替えに願い事をかなえろという要求は失礼だと神は考えない
のだろうか。一億円出しても「そんなハシタ金で歓心を買おうとするな」と怒るか
もしれない。怒りは避けたい。世の中の理不尽な不幸を見ればわかるように、神は
冷酷苛烈なのだ。
神の意志が賽銭の額で決まるはずがないとも思えるが、古来、神は美女やごちそ
うを強欲に要求してきたという歴史がある。
読者の中で「圧倒的力をもっている者が、私利私欲に走るはずがない」と思う人
は、わたしの家に来ればいい。実物がいるから。
賽銭の額と並んで難しいのは願い事の内容だ。家族の健康を願うだけでは不十分
だ。健康であっても、魚の骨が喉に刺さった、目にゴミが入った。トゲが刺さって
とれない事態になれば、高血圧やがんより切実な悩みになって、幸福ではいられな
い。さらに蚊、ノミ、熊、イノシシなどが異常発生するのも困り(異常発生するの
は人間だけで十分だ)、毎日暴風雨でも困るし、この世から靴がなくなっても困る
から、それらも祈る必要がある。
また自分のペットや近所のネコに何事もないよう祈る必要もある。マグロや和牛
やそのエサが絶滅しないよう祈ることも必要だ。
地球上で悲惨な目にあう人がいれば幸福でいられないから、人類すべての幸福も
必要だ。宇宙人の幸福や故人の冥福は願わなくていいのか。何より、神の幸福を願
わくていいのだろうか、(神の幸福を願ったらかえって怒りを買うような気がする)。
結局、「すべておまかせします」と祈るしかない。これでは何も祈らないのと
同じことになるが、なにかご利益がえられるのだろうか。
( 誤字脱字ご容赦 )
以下、アダムの弁明・イヴの弁明・蛇の弁明・神の弁明・・その他・雑多

老化予防・本か?