「CROWN English Reading Lesson8 「The First Mission to America」 和訳」
Diary
「The First Mission to America」(アメリカへの最初の派遣)
明治時代の、もっともポピュラーで影響力のある思想家は疑いなく福沢諭吉だ。彼の初期の著作は、1980年代の文明開化や中心となった。彼の著作を読んでいく中で、1860年に彼が初めてアメリカを訪れた時の事が語られていた。
私が江戸に移り住んだ翌年、安政6年(1859年)将軍はアメリカへ船を送ることを決意した。船の上、私はアメリカ行きの成功を祈っていた。万延元年(1860年)の6月、私たちの船「咸臨丸」は品川の海岸を離れ、江戸を出発したのであった。
嵐に次ぐ嵐であった。波は絶えず崩れて船に覆いかぶさった。船が傾くたびに、私は船の底の方から巨大な波のてっぺんを見上げていたことを覚えている。もし船が45度以上傾いたら、海の底へと沈んでしまうだろうと私たちは話していた。しかしまだ船は予定航路を外れてはいなかったし、幸運にも重大な問題はなかったのである。
私は健康そのものであったし、全く船酔いにもかからなかったのである。私は友人に、「刑務所に入れられて、一日中地震が起きていると考えててみろよ。僕には今がこれよりもひどい事であるとは思わないな。」と冗談を言っていた。
私たちは37日の航海ののち、サンフランシスコに到着し、とても友好的な人々の歓迎を受けた。彼らは私たちに様々なことをしてくれた。彼らの役割は、7年前にペリー提督が私たちの国を開く変化をもたらしたように、そして今ここで私たちが初めてアメリカを訪れたように、教師が古い教え子から学ぶようでなければならない。
海岸に到着してすぐ、私たちは馬車でホテルまで連れて行かれた。ホテルで休んでいる間、街の役人やさまざまな要人が私たちに会いに来た。宿の主人は、私たちが日本人であり、食事が異なるのを知っていたので、私たち自身が食事の準備をすることができるよう手配してくれた。しかし役人達はとても親切で、私たち日本人が魚介類を好むのを知っていたので、毎日魚を贈ってくれた。さらに、日本人が頻繁に入浴するという風習を学ぶとすぐに、彼らは毎日風呂の準備をしてくれた。
一方私たちは、アメリカの慣習を理解していなかったために、まごついてしまう時が多くあった。たとえば馬車にでさえ、私たちは驚かされたのだ。馬車に繋がれている馬を見ればそれが何か推測するのはたぶん容易であるはずなのだ。しかし、動き出すまでそれが馬であるという事が本当にわからなかったのである。
私たちは全員、普段通り2つの刀を脇に差し、草履を履いていた。。そんな風な格好で、私たちはモダンなホテルを使っていた。その点において、日本では一部の金持ちが、少ない商品で金銭を生み出し、いつも煙草入れを持っているような輸入商品店でしか買うことのできない、高価なカーペットには気をつけた。そのカーペットはすべての部屋に広げられていて、この織物の上を宿の主人は屋外に出るのと同じ靴を履いたまま歩くのである!私たちは草履を履いたまま彼らに続いた。
すぐにボトルが持ってこられた。そして、いきなり爆発した。シャンパンが開けられたのである。グラスがまわされて来た時、それに浮いていた何かに気がついた。暖かい春の季節に氷を見るだなんてほとんど思ってもいなかった。しばしばパーティーでは、浮いている氷を飲み込んだり、一方でははそれを吐き出したり、または勇敢にもそれをかみ砕いていた。これは、いわば氷の正体を確かめる冒険なのだ。
夜になり主人は、紳士淑女はダンスを踊るので、私たちに出席して喜んでほしいといった。私たちは行ったのだが、ダンスをうまくやることはできなかった。紳士淑女は、一緒に部屋を渡り歩くかのように見えた。とても楽しかったが、笑うのは無作法にあたると知っていたので、踊りに続く時は苦労して声を抑えたものである。しかしこれらは、異国のつまりアメリカ社会の風習について驚いた、ほんの少しの例である。
サンフランシスコでの主催者はとても親切で、近代産業の例を見せてくれた。砂糖工場へ連れて行ってもらい、操作などを教えてもらった。本当に彼らは私たちに全く新しいものを見せて、各々の近代工学装置を見て驚いてもらおうと考えてくれていたのである。しかし、少なくと私には本当に新しいものは無かった。どうやって砂糖を製造するのか私は知っていた。緒方先生の教室に入ったときからずっと、科学的知識だけは勉強してきたのである。
いくぶんか驚かされることはあったが、それはもっぱら日本と違うアメリカ人の生活様式についてであった。何よりもまず、そこでは莫大な量の鉄の浪費が至る所であるように思われる。海岸のいたるところはゴミ集積場のように積み重ねられていたし、古い油用の錫メッキ缶が転がっていたり、壊れた機械があるのを見かけた。これは驚くべきことであった。江戸であれば、火事の後は多くの人々が通りまでやってきて、鉄のかけらを探すのである。
社会の、政治の、経済の物は、理解するのが最も難しかった。ある日、不意に心に抱いたことを尋ねた。それは、ジョージワシントンの子孫はどこで何をしているのか、というものであった。それに対する答えは、「ワシントンには娘がいたと思うが、今どこにいるのかは知りません。でも、結婚したという話を聞いたと思います。」彼の答は何気ないものであったが、私には衝撃的なことだった。
もちろん、アメリカが4年ごとに新しい大統領をたてることは知っていた。けれども、ワシントン家はほかのどの家よりもまず尊敬されているものだと思っていた。この考え方は、家康の家である徳川家を、将軍の一家として日本では尊敬していることによるものである。だから、このワシントン家に関する返答を聞いて驚きを覚えたのだ。
日本へと帰る南側ルートの天候は非常に良かった。5月5日の朝、私たちは浦賀へと到着した。実際のところは、すべての日本にやってきた船は、必ず最初に浦賀によらないといけない決まりになっていたのである。我々は、日本へ最初に立ち寄るためにそこで降りた。飲むのに十分な量の水の供給しかなかったので、何日も入浴することなく来た。だから、髭を剃ったり心ゆくまで風呂に入るのが楽しみであった。

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