「日本を代表する総合的伝統文化」「おもてなしの文化」など、茶の湯をそのように評する麗句は多い。そこには幅広い「美」の要素が、すべての道具としてのモノや、所作などの行為に込められてる。
しかしである。今日では、伝統文化と呼ばれていても、それらが芽生えたときにはことごとく新しい価値観と多くの美しさを創造したエポックメイキング(>>>ある事柄がその分野に新時代を開くほど意義をもっていること。画期的。)な文化だったことを忘れてはならない。例えば、それまで日本に無かった「茶室」という空間を生み出し、茶碗他茶道具を見立てて、必要とあらば海外発注も辞さずに取り入れてきた。「数寄」とは本来「とるにたらないもの」を集めるという意味だった。敢えて、茶道といわず、茶の湯、数寄といった古風な呼び名にこだわりたいのは、文化として膨大な美に支えられて立ち上がった、茶の湯=数寄の初期的・本質的魅力を伝えたいからなのだ。それは単におもてなしではない、それは挑戦だ……
上の文章は今回共にカフェに取り組んだGくんが「この本、タケシさん向きですよ」と貸してくれた美術手帳・最新号よりの抜粋である。
彼の言う通りで、おもしろく読む事ができたので、ここに紹介したいと思う。アカデミックで保守的に「お茶」を扱っていないいい本です。
巷で、茶道というものをアカデミックに習いに行ってる人たちの話しを聞く機会がある。そんな彼らは、お稽古での先生や先輩のこと、そして様々な因習や取り巻きのことなどなど……僕としてはとっても不思議に思うことが多い。茶道について、学ぶ事が多いのは疑わない。ただ学ぶ環境、先輩や先生って彼らの環境に閉鎖的に引きこもり、教え学びしてるんじゃないのか?…… なんて正直感じるのだ。彼らに、時代感覚やモード感を感じず、数寄や茶の湯の精神とかけ離れてると思うのだ。僕自身は、モードやモダンアートの切り口で茶の湯を遊びたいと思っている。邪道かもしれないが、自己責任の範囲で共鳴してくれる人々と遊べればいい、そんな取り組みをネオ・ウメダでやりたいだけである。
前振りでは無いですが、話しが長くなりました。茶の湯はやるたびに、お茶だけでなくアートや自分の流儀について深く考えさせられるので悪しからず。
今回は、皿同様、泰二郎くんのお茶碗に絵付けしたものを使おうと4-5点制作したのですが、おもしろいものが出来ずで断念。泰二郎くんのせいではなく、僕のせいですが、それで頭をゼロに切り替えました。友人の陶芸家に借りに走るような「無い物ねだり」もしたくなかったので、悩みました。予算も無く、あるものでということ、それでよしと100円ショップに駆け込みステンレス・ボウルを10個揃えました。このままじゃ芸が無いから、アルファベットの刻印と金槌でもって、茶の湯をキーワードに10個の単語をボウルの底に打ち込みました。RIKYU,HIDEYOSHI,WABI,SABI,SUKI,ORIBE,ENSYUなどなど……ステンの肌が、ウメダの板床にお茶のグリーンと共によく映えるのですが、問題は持つ手に熱いのです、あたりまえですが。自分でも、急場凌ぎは否めませんが、適度なものを用意して場の帳尻を合わせるようなマネはしたくなかったから、これでいいのだと思っています。道具のための茶じゃなく、茶のための道具でありたい。でもまあ、次回は使えない手でしょう、考えないといけませんね。
干菓子と皿。ゲストには帰りに好きな豆皿を選び、持って帰ってもらうシステムでした。続く……

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