今年も後2日になってきました。今回故郷のなかで「因幡二十士」を助けて西国に逃がした橋津志士その中でも
「中原吉兵衛さん」について紹介します。
なぜ中原吉兵衛さんかと言うと、この人物の「得」より「徳」、「義」を選んだ人物なのです。
その当時幕末の頃、廻船問屋をいとなみ、大阪の豪商淀屋とも姻戚関係があり国の実情が良くわかっていたと思われます。
また、「因幡二十士」のひとり詫間樊六が息子忠次郎の剣術の師でもあったため関係が深かったように思います。その様な関係から、この橋津の地から西国に逃亡したのだと思います。ただときの藩に逆らうことは、家・家族そして一族郎党すべて処罰される事なのです。それでも尚この様な手助けをしたことに、またこの様な偉業をした人物が我が
「ふるさとに」におられたことに、おおきな誇りを感じます。その吉兵衛さんの奥さんが私の勤めている、○○書店から嫁がれていることもじじつです。
ただ吉兵衛さんの余生は必ずしも幸せだったとは言えないかも知れません、逃亡生活の途中島根県たいの浦で息子忠次郎をなくし、体制が変わったからと言って、財産、役職すべてを失い、またまわりの人たちに大きな迷惑をかけた責任もありました。
そしてその当時の村人達の窮状から村人へ貸付けていた証文をすべて焼いてしまったそうです。
体制が変わり、因幡二十士の生き残りは、維新の勲功によって明治政府の高官に収まったのですが、橋津の志士たちは平民だったせいなのか何一つ報われませんでした。
こんなエピソードがあります。「因幡二十士」の隊長河田佐久間が、初代鳥取藩の知事として赴任しました。当時村の世話役をしていた吉兵衛さんが陳情に行ったおり、「吉兵衛だいぶ困っているようだが、援助してやろうか。」と横柄な態度で接したそうです。「今さら、吉兵衛などと呼び捨てにされるいわれはない、お国のために喜んで命をかけたたんだ。」と言いはなって席を立ったとのことです。
そして村人の間では「義の人、中原吉兵衛」と後生まで語り伝えたとのことです。
本当に「得」より「義」「徳」選ぶことほんとうに出来ないことです。でもこの様な人物が我が故郷におられたことに誇りを思い、少しでも近づけるよう「大志」は持たないまでも、「志」=「こころざし」だけはもっていたいと思う親父です。ちなみに下の息子の名前「○志」です。 あっ失礼しました。