●釈迦が説いた、自由論
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釈迦はクシナガラの郊外、シャーラ
(沙羅)樹の林の中で、最後の教え
を説いたという(仏教聖典)。
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、
自らを灯火(ともしび)とし、
自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはいけない。
この“法”を灯火とし、よりどころと
せよ。他の教えをよりどころとしては
いけない。
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●自由
「自由」という言葉がある。この言葉は、もともとは、「自(みずか)ラニ由(よ)ル」、あるいは「自ラニ由ラセル」という意味である。
つまり、(自分で考え)、(自分で行動し)、(自分で責任を取る)ことを、「自由」という。
釈迦は、仏教聖典(仏教伝道協会発行)によれば、最後に、まさにその「自由」について説いたことになる。
ついでながら、私が知るかぎり、釈迦が、「前世」とか「来世」とか、そんなことを説いた形跡は、どこにもない。あるとすれば、釈迦滅後、数百年を経て書かれた経典の中だけである。そうした経典は、ヒンズー教の影響を、モロに受けている。
それはともかくも、釈迦は、つぎのようにつづける。
『わが身をみては、その汚れを思って、
貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも、
ともに苦しみの因(もと)であると思って、
ふけらず、わが心を観(み)ては、その
中に「我」はないと思い、それらに
迷ってはならない。そうすれば、すべての
苦しみを断つことができる。
わたしがこの世を去った後も、このように
教えを守るならば、これこそわたしの
まことの弟子である』と。
●煩悩(ぼんのう)
釈迦によれば、私たちの心というのは、基本的には、「汚れている」ということになる。だから、その汚れた心のまま、「貪ってはならない」と。つまり貪欲になってはいけない、と。もっとわかりやすく言えば、情欲の命ずるまま、貪欲になってはいけない、と。
そしてそれを受けて、『苦しみも楽しみも、ともに苦しみの因であると思って、それにふけってはいけない』と。
同じようなことが、東洋医学のバイブルとも言われる、(黄帝内経・素問・上古天真論篇)の中にも書いてある。「(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」と。
つまり「楽しいから」といって、享楽的に、それにふけってはいけないということ。それはそのとおりで、1人の人の(楽しみ)は、どこか別のところで、別の人の(苦しみ)の上に成り立っていることが多い。あるいは享楽的に生きれば生きるほど、その反動は、かならず、自分自身にやってくる。
またつぎの『わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない』の部分は、フロイトのリピドー論を重ねてみると、意味がよくわかる。
私たちを根源的な部分で動かしているのは、リピドー、つまり性的エネルギーである。さらにつっこんで言えば、「子孫存続本能」ということになる。もちろん私たちはそれだけで生きているわけではないが、しかし私たちの日常的な行動すべては、どこかでその本能と結びついている。
それがわからなければ、ほかの動物や植物をみればよい。私たち人間も、その一部でしかない。
●どこまでが「私」?
釈迦は、「私たちの中には、『私』という部分は、本当はないのだ」と説いている。つまり「私は私」と思っている部分にしても、そう思っているだけで、実際には、私ではない、と。
たとえば若い女性が、化粧をする。その女性は、「私は自分の意思で化粧をしている」と思っているかもしれないが、その意思とて、作られたものにすぎない。結婚前の女性であれば、まさに「子孫存続」のための、その準備行動をしているにすぎない。
実際、私の中の「私」をみつめてみると、どこからどこまでが、「私」で、どこからどこまでが「私」でないか、それがよくわからないときがある。たとえばもうすぐ60歳という、この年齢になっても、性欲は残っている。ときどきエロビデオを見たいという欲求もわいてくる。
しかしそう思うのは、ここでいう(私であって私でない部分)ということになる。だからつづく行動、たとえばエロビデオ店へ行って、見たいエロビデオを選んだり、買ったりするのも、(私であって私でない部分)ということになる。
しかしこんなことをおおっぴらに言えば、(すでにおおっぴらに言っているが)、「教育評論家と呼ばれている男が、何を言うか!」と、非難される。だから私は、こういうことは隠そうとする。「私は、そういうエロビデオは見ていません」というフリをする。
「私」がかろうじてあるとすれば、その(隠そうという)部分、もしくは(フリをしている)部分にでしかない。
●苦しみは煩悩から
要するに、私たちが日常生活でいうところの(苦しみ)などというものは、総じてみれば、(私であって私でない部分)から生じている。だから釈迦はこう言う。『私の中に、「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる』と。
もう一歩先を言えば、「私は私」と思うから、そこから苦しみが生まれる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」と。ならば、最初から、運命を受け入れ、それに従えばよい。へたに「私」にこだわるから、人は苦しむ。悩む。釈迦もこう言っている。
『……いたずらに悲しむことはやめて、
この無常の道理に気がつき、人の世の
真実のすがたに眼をさまさなければ
ならない。
変わるものを変わらせまいとするのは、
無理な願いである。
煩悩(ぼんのう)の賊(ぞく)は、
常におまえたちのすきをうかがって、
倒そうとしている。
もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んで
いるのなら、その毒蛇を追い出さない
かぎり、落ちついてその部屋で、
眠ることはできないであろう。
煩悩の賊は追わなければならない。
煩悩の蛇(へび)は、出さなければ
ならない。
おまえたちは慎(つつし)んで、
その心を守るのがよい』(同書)
あとは、その瞬間、瞬間を、懸命に生きること。ただひたすら懸命に生きること。それがどんな結果で終ろうとも、それも運命。そのときはそのときで、その運命を、静かに受け入れれば、それでよい。
釈迦が説いた「自由」とは、まさに「私」を求める戦いであったということになる。わからいやすく言えば、「私」を、「私の中の私でない部分から解放させる」。それが真の自由につながる、と。
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黄帝内経・素問・上古天真論篇
について書いた原稿を、添付
します。(中日新聞発表済み)
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●子育ては自然体で
『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。
いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。
まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、極端主義、スパルタ主義、完ぺき主義がある。極端主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとやめさせるようなことをいう。
よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。
次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。
あなたの子どものできがよくても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これに振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわるほとんどの悩みは解消する。
要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要なことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。子育てを一言で言えば、そういうことになる。
さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。
子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的として、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多もいけないが、栄養不足もいけない。
子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。