●無私、無欲の老後生活
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老後を、いかに美しく生きるか?
そのヒントとなるのが、統合性の
問題である。
死の限界を感じたら、(すべきこと)を
(現実にする)。この両者を一致させる。
そういうひたむきな姿から、老後の
美しさが生まれる。もちろん、その
人自身の生きがいも、そこから生まれる。
ヒントは、無私、無欲。功利、打算が
入ったとたん、統合性は、霧散する。
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●ある男性
たとえばここに1人の男性がいる。年齢は80歳。55歳で、官職を退任してからというもの、ほとんど毎日、庭いじり三昧(ざんまい)。1人、娘がいるが、東北のある都市に嫁いでからというもの、数年に1度、あるいは、5、6年に1度くらいしか、帰ってこない。帰ってきても、子ども(その男性にとっては孫)もつれてこない。その男性とは、会話らしい会話もしない。
妻はいるが、数年前に腰を痛めてからというもの、籍を、近くの老人養護施設に移している。ときどき男性のもとに帰ってきて、洗濯や部屋の掃除をする。しかしやはり妻も、その男性との間では、会話らしい会話をしない。
ここに書いた男性というのは、架空の男性である。ひとつの例として、私が考えた。
●軽蔑すべき自己愛者たち
自己中心性が強いということは、EQ論(人格完成論)に従えば、それだけ人格の完成度が低いということになる。その自己中心性が肥大化した状態を、「自己愛」という。
自己愛というのは、軽蔑されるべきものであって、けっして、賞賛されるべきものではない。その男性について言うなら、その男性は、自分のしたいことをしているだけ。一見、優雅な老後生活に見えるが、心の中は、からっぽ。乾いた秋の風が、その中でカラカラと吹いている。
そういう男性のことを「自己愛者」という。
そこで統合性の問題。このところ、この問題についてばかり書いているので、うんざりしている人も多いかと思う。そこでここでは、さらにその先について考えてみたい。
●心豊かな老後生活
統合性の問題は、いかにして老後を、心豊かに生きるべきかという問題と直結している。統合性を確立した人は、老後になっても、前向きに生き生きと、自分の人生を過ごすことができる。ただしそれには、条件がある。
無私、無欲。
ほとんどのばあい、(自分がすべきこと)には、苦労や苦痛がともなう。(できればしたくないこと)のほうが、多い。ボランティア活動を例にあげるまでもない。
ボランティア活動にしても、そこに功利、打算が入ったとたん、ボランティア活動は、ボランティア活動としての意味を失う。無私、無欲でするから、ボランティア活動なのである。
では、趣味は、どうか?
先の男性は、毎日、庭いじり三昧の生活をしている。自宅の裏には、100坪程度の畑ももっている。しかし先にも書いたような人だから、訪れる人もいない。その季節になると、庭中に、美しい花が咲き誇る。が、それを愛(め)でる人もいない。近所の人でさえ、その男性の家には、近寄らない。遠回りをして歩く。視線を合わせるのが、いやだからである。
先にも書いたように、ここに書いた男性というのは、架空の男性である。話の内容をわかりやすくするため、人物像を極端化してみた。しかしこういうタイプの老人は、少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にも、1人や2人、いるかもしれない。要するに、自分の老後を、自分のためだけに生きているような老人である。自己満足のためだけに生きているような老人である。
つまり趣味に生きるというのは、あるべき老後の姿ではないということが、これでわかる。またそういう老後を送っているからといって、その老人が充実した毎日を送っていると考えるのは、正しくない。
そればかりか、そういう生活からは何も生まれない。もっと言えば、1年を1日にして生きているだけ。10年を1年にして生きているだけ。さらにもっと言えば、「ただ生きているだけ」。
●一方、こんな女性も
一方、私の近所には、こんな女性がいた。「いた」というのは、現在、体をこわし、もう1年近く入院したままの生活を送っているからである。実在の女性である。年齢は、今年、98歳になると聞いている。
その女性の近くに中学校がある。その女性は、毎日、ハサミをもって、中学校のまわりの草を刈っていた。(あの小さなハサミで、だぞ!)もちろんゴミも拾っていた。そのためその中学校のまわりは、いつも清潔だった。雑草、1本、生えていなかった。
そういう女性を見かけると、自然と頭がさがる。実際、私はその女性だけには、あいさつを欠かしたことがない。エンジン付の草刈り機を使えば、半日ですむかもしれない。しかしその女性は、毎日、少しずつ、ハサミで雑草を刈っていた!
つまり統合性を確立した人の生き様は、それだけで、それを見る人に感動を与える。その感動が、人からまた別の人へと伝わっていく。そしてその「輪」が広がるたびに、それぞれの人に、生きる喜びを与える。
けっしておおげさなことを言っているのではない。その喜びがまた、その女性の生きがいとなって、はねかえってくる。統合性の問題には、そういう意味も含まれる。つまり統合性の問題は、個人の問題ではないということ。個人というワクを超えて、他人を感化する力をもっている。
●私なりの結論
さて自分の老後を、どう組み立てるべきか。長い間、私は、この問題について考えてきたが、ここに書いたことが、そろそろ、その結論ということになる。
私たちは、40歳を過ぎたら、(私は何をすべきか)を考える。(したいこと)ではない。(すべきこと)を考える。そしてその基礎を作り始める。こうした基礎は、一朝一夕にはできない。10年単位の熟成期間が必要である。
そして老後を迎えたとき、その基礎があってはじめて、私たちは、その上に、統合性を確立することができる。何度も繰りかえすが、(すべきこと)には、苦労や苦痛がともなう。しかも無私、無欲でなければならない。
それが心豊かな老後生活を送るための、必要条件ということになる。もちろん基礎となるテーマは、みな、ちがう。ちがって当然。それぞれがそれぞれの道で、自分の統合性を確立すればよい。
ある女性は、80歳を過ぎてから、乳幼児の医療費無料化の問題に取り組んでいた。
べつの女性は、今、スイスに住み着いて、着物の着付けの普及活動に取り組んでいる。
さらに別の女性は、大通りに、手作りの店を開いている。身体障害者の人たちが作った作品などを、積極的に並べ、販売に協力している。
……この問題を考えるようになって、もう1年近くになる。とくに年老いた母が私の家にやってきてからは、真剣に考えるようになった。母を介護しながら、私は、毎日、そんなことばかりを考えていた。
あとは、自分の定めた目標に向かって進だけ。道は見えた! がんばろう。