●愛国心(Exaggerated Nationalism)
●今朝・あれこれ(5月2日)
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朝、起きる。
パソコンの電源を入れる。
Eメールをのぞいたあと、
いくつかのニュース・サイトをのぞく。
5月1日から、またまたガソリンの
暫定税率が復活した。
「暫定」というのは、「一時的」という意味。
これから先、政府(=官僚)が、「暫定」という
言葉を使っても、私はもう信用しないぞ。
そのこともあって、福田内閣の支持率は、
急落。
日経世論調査によれば、「21%」にまで、
さがったという(5月2日)。
問題は、利権にからんで、官僚の手先と
なって動く、族議員たち。
ああいう連中が、金(マネー)の力に
もの言わせて、日本の進むべき道を
狂わせてしまう。
この無力感。
この脱力感。
また、中国では、反フランス運動が、
燃えさかっているという。
ああいうのを日本から見ていると、
愛国心とは何か、改めて考えさせられる。
アインシュタインは、「誇張された民族主義
(exaggerated nationalism)こそ、危険」と
書いている(TK先生への私信)。
狂ったように騒ぐだけで、そこにある事実を
見ようともしない。
チベットは中国の領土だと叫び、ついで、
その中国を批判するフランスに抗議を
繰りかえす。
みなでワーワーと叫んで、自分たちの
都合のよいように、事実をゆがめてしまう。
これをファシズムと呼ばずして、何という?
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●糖尿病
現在、糖尿病患者、もしくはその予備軍の人が、1000万人
近くもいるという。
私の年代、つまり60歳以上になると、約30%の人が、
糖尿病患者、もしくはその予備軍だそうだ(5月1日、昼のニュース番組より)。
(ここにあげた数字は、聞き覚えなので、正確ではない。)
たいへん静かな病気で、それ故に、軽くみられがちだが、
糖尿病は、けっして、軽い病気ではない。
徐々に、体がむしばまれていく。
足の先が壊死したり、失明したりすることもあるそうだ。
私は、そのニュースを見たとき、ゾーッとした。
壊死した人の足の写真が、脳裏にペタリと張りついてしまった。
で、そのあと、そのままサイクリングに出かけた。
気分を変えるには、サイクリングがいちばんよい。
おかげで今は、気分爽快。
少し眠気が残っているが、それもどこか、心地よい。
……ということで、今日は、何かと忙しかった。
明日、二男夫婦が、アメリカから帰ってくる。
その準備に追われた。
ほっと一息ついたのが、昼ごろ。
それから仕事の準備。
プリントを印刷して、教材の整理。
で、今は、こうして教室のパソコンの前で、この原稿を書いている。
あと10〜20分もすれば、子どもたちの声が聞こえるはず。
今日も、がんばろう!
●66歳の死
近所の、N氏(男性)という方が、数日前に亡くなった。
66歳だった。
「つい先日まで元気だったのに……」と、ワイフは言った。
「66歳じゃあ、若すぎるよ」と私。
そう、若すぎる。
若い人たちは、「50歳」と聞くと、
ジジイと思うかもしれない。
「60歳」と聞いたら、なおさらだ。
しかし自分が、その60歳になってみると、
ジジイという感覚は、ない。
まったく、ない。
バリバリの現役というわけでもないが、
現役は、現役。
以前、Nペイントという会社で、会計監査役をしていた
T氏という人が、こう言った。
「私がいちばん仕事ができたのは、60代の
ときでした」「林さん、あなたは、まだ若い」「これからですよ」と。
そのときT氏は、75歳くらい、私は、55歳くらいだった。
だから「若すぎる」と、私は思う。
が、N氏との思い出は、あまりない。
しかしワイフは、N氏のことをよく覚えている。
ワイフは、町内の仕事を、いっしょにしたことがある。
だから余計にショックだったのだろう。
通夜にいったときも、今日、出棺で見送ったあとも、
ずっとN氏の話ばかりをしていた。
つぎは私かも……と考えて、この話はおしまい。
死んだ人の話は、いつも気が滅入る。
●「K」という宗教団体
街の中心部に、8階建てのビルがある。
その7階に、「K」という宗教団体の、浜松支部が、入居している。
知らなかった。
で、先日、その「K」という宗教団体の部屋へ、迷い込んでしまった。
同じフロアで、事務所を構えている友人に会うつもりだった。
一見して、「K」とわかった。
(あの人)の肖像画が、中央に、大きく飾られていた。
が、入ってみて、驚いた。
実に、みな、なごやかで、楽しそうだった。
7〜8人の男女が、輪をつくって、何やら袋づめの作業をしていた。
その向こうでは、別の数人が、印刷物の整理をしていた。
「あのうXという事務所をさがしているのですが……」と声をかけると、
即座に数人がたちあがり、「こっちです」「こっちです」と。
言い忘れたが、その部屋の表札には、どこにも「K」という名前はなかった。
「〜〜ビジネス・グル〜プ」(仮称)とかいうような表札がかかっていた。
それでまちがえた。
で、私が、「ここは、あのK、ですか……?」と声をかけると、
何ら躊躇(ちゅうちょ)する様子もなく、みなが「そうです」と言って、笑った。
明るい声だった。
プラス、私のような珍客(?)が、よほどうれしかったのだろう。
部屋を出ようとしたところで、ひとりが、こう言った。
「よかったら、お茶でもどうですか? これも縁ですから」と。
私は断ったが、しかし、彼らがもつ温もりというか、なごやかさに、
たまらないほどの(なつかしさ)を感じた。
(温もり)というか、(やさしさ)を感じた。
一時は、その「K」も強引な勧誘方法が問題になったことがある。
しかし私が見たところでは、そういう様子は、まったくなかった。
で、こうした宗教団体の魅力はといえば、その(親近感)にある。
入信したとたん、信者どうしが、家族以上の家族になる。
孤独感が、そのままどこかへ消えてしまう。
それがこうした宗教団体のもつ、魅力ということになる。
が、だからといって、「K」が、すばらしい団体と言っているのではない。
私が言いたいのは、どんな宗教団体にせよ、それを求める
信者がいるから、そこに存在するということ。
宗教団体があるから、信者がいるのではない。
信者が求めるから、そこに宗教団体が存在する。
だから宗教団体を、たとえばその反社会的行為を理由に、
叩いても意味はない。
よい例が、あの「O真理教」である。
仮に解散させたところで、信者たちは、また別の教団を求めて、
さまよい歩くだけ。
もっと言えば、ハシゴをはずすことくらいなら、だれにだってできる。
ハシゴをはずしたら、それに代わるものを用意してやらなければならない。
それをしないで、ハシゴだけをはずせば、困るのは信者、ということになる。
たまたま今日、再びそのビルに足を踏み入れた。
1階にあるレストランに行ったついでに、友人の事務所を訪ねてみた。
で、「K」という宗教団体のことを思い出した。