【整形という不道徳】
●安易な肯定論
「整形をしたおかげで、人生が明るくなった」「前向きに生きられるようになった」という、男性や女性は多い。そういう肯定的な評価だけが先行し、このところ、整形する若い男女が、ぐんぐんとふえている。正確な数字はわからないが、浜松市内だけでも、この種の美容整形をする医院が、急速に数をました。しかも市の中心部の一等地に、それらがずらりと並ぶ。
身体コンプレックスはだれにでもある。この私にもある。……あった。私がそれを一番強く感じたのは、オーストラリアで留学しているときだった。当時、あの人口三〇〇万人のメルボルン市でさえ、日本人の留学生は私一人だけだった。目立つというよりも、いつも好奇の対象として見られた。
そういう中、私は、私のサイズに合うズボンをさがすのに苦労をした。結局、子どもサイズのズボンを買って、それをなおして使ったが、あのとき感じた屈辱感は、いまでも忘れることができない。もしあのとき、足の長さをあと、一〇センチ長くする手術があったら、私はそれを受けたかもしれない。
だから整形する人の気持ちがわからないわけではない。しかし「賛成!」と言うには、あまりにも遠い距離を感ずる。賛成か反対かと聞かれれば、当然、反対に決まっている。だいたいにおいて、整形して何をなおす? 「なおす」といえば、まだ聞こえはよい。実際には、「ごまかす」?
悲しいかな日本人の骨相は、もっとも貧弱というのが、世界の定説。長い間、極東の島国で、孤立していたのが原因らしい。他民族と血の交流をほとんどしてこなかった。私も含めて、顔のこわれた人や、崩れた人は多い。ほとんどがそうではないのか。そういう日本人が、少しくらい顔をいじったところで、それがどうだというのか。
整形することについて、何かの哲学があれば、まだ救われる。しかしそんな哲学など、どこにもない。よい例が、あの厚底サンダル。私はあの厚底サンダルが、若い女性の間で流行したとき、「日本人の短小コンプレックス、ここに極(きわ)まれり」と思った。髪の毛を茶色にしたり、肌を脱色したり、つまりは白人コンプレックスのかたまりのようなことばかりしている。そしてその延長線上にこうした美容整形があるとしたら、「賛成」とは、とても言えない。
●外面世界と内面世界
世界には二つある。一つは、私たちを取り巻く、外面世界。この宇宙そのものということになる。もう一つは、私たちの心の中にある、内面世界。この内面世界も、外面世界の宇宙と同じくらい、広い。
もしそれがわからなければ、静かに目を閉じてみればよい。そのときあなたは、暗闇の向こうに、何を感じ、何を思うだろうか。それが内面世界である。この内面世界が広くなればなるほど、相対的に外面世界は小さくなる。ばあいによっては、ちっぽけな世界になるかもしれない。あるいは「外面世界など気にしてどうなる」とさえ思うようになるかもしれない。もう少しわかりやすい例で説明してみよう。
私はもう三〇年近く、自転車通勤をしている。その自転車通勤をしていることについて、群馬県のT市で公認会計士をしているK君(私と同年齢)はこう言った。「そんな恥ずかしいこと、よくできるな」と。
彼に言わせれば、自転車通勤は、恥ずかしいことだというのだ。そこで話を聞くと、彼はこう言った。「ぼくらの仕事はメンツを大切にする仕事だから、自転車なんかに乗っていたら、それだけで相手にされなくなるよ」と。実際には、彼は、黒塗りの大型乗用車で仕事先へ行くという。
しかし私は一向に構わない。自転車通勤をしていることを、恥ずかしいだとか、かっこう悪いことなどとは、思ったこともない。もしそういうふうに思う人がいたら、私はむしろそういう人たちを笑う。もとはと言えば、健康ために始めた自転車通勤だが、あるときから、それを誇りにさえ思うようになった。「私は環境を破壊していないぞ」と。
もし本当に天国というものがあるなら、私はまっさきに天国へ入る資格がある。神様も私を一番に、迎えてくれるだろう。「あなたは地球環境を守るために努力しましたね」と。
自転車通勤を、恥ずかしいこと、つまりコンプレックスにするかどうかは、その人の考え方による。もっと言えば、内面世界の広さによる。いや、だからといって、私の内面世界が、その公認会計士の友人より広いと言っているのではない。たまたまこの分野については、私のほうが広いというのだ。だから気にしない。人が何と言おうと、気にしない。
●戦うべきは、内面世界
さて整形の話にもどる。身体的なコンプレックスがあるかどうかを問題にする前に、その人自身の内面世界はどうなのかという問題がある。そういう内面世界が一方にあって、それでいてなおかつ外面世界を気にするというのであれば、それはそれとして理解できる。
が、その内面世界がないまま、外面世界だけを気にして、コンプレックスを感ずるというのであれば、整形がどうのこうのということを問題にする前に、生き方そのものがまちがっている。もし冒頭のような論理がまかりとおるなら、どんな行為でも正当化されてしまう。「大麻を吸ってみたら、いやな気分を吹き飛ばすことができた」「いやなヤツを殺してみたら、胸がスーッとした」と。
それほど深く考えないで、流行だから茶パツにするというのなら、それはそれでよい。流行だから厚底サンダルをはくというのであれば、それはそれでもよい。しかし整形を、それらと同じに考えることはできない。健康な体に、不必要なメスを入れるということ自体、自然に対する冒涜(ぼうとく)行為なのだ。自分の体は自分のものであって、決して、自分のものではない。
たとえばあなたの手を見てほしい。あなたは自分の手を見て、あなたがその手を自分で作ったと、本当に思えるだろうか。あなたの体を見て、あなたがその体を自分で作ったと、本当に思えるだろうか。私は思えない。思えないばかりか、ときどき自分の手や体を見て、不思議に思うことがある。「いったい、これはだれの手なのだろうか」「これはだれの体なのだろうか」と。私は、そういうものを勝手に作りかえることは、私を超えた私に対する、冒涜だと言っているのだ。
みんなコンプレックスの一つや二つは、もっている。コンプレックスのない人など、いない。しかしそのコンプレックスを戦うのは、自分自身の内面世界なのだ。仮に身体的なコンプレックスがあったとしても、戦うべきは、それをコンプレックスと思う自分自身なのだ。理由は簡単だ。
仮にあなたの顔がこわれていたとしても、それを恥ずかしく思うのは、「顔」ではない。あなたという内面世界の人間なのだ。つまり戦うべき相手は、あなたの心なのだ。繰り返すが、そういう戦いが一方にあって、なおかつ外面世界を気にするのなら、話はわかる。しかしそういう戦いをすることもなく、外面世界だけを気にするというのであれば、それはまちがっている!
(追記)道徳をともない自由は、危険ですらある。「人に迷惑さえかけなければ、何をしてもいい」という論理ばかりが先行したら、世の中はどうなる。こうした美容整形医に高い道徳を求めることはできないのか。もとからそんな道徳のない人間が、医者をしている? 今、この日本では、こうした「自由観」が、大手を振ってまかり通っている。若者たちは、それに踊らされているだけ? ある意味で本当の犠牲者は、その若者たちなのかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 内面世界 外面世界 子供の整形 整形美容)