●若い母親たち
若い母親たちに、こんなことを言っても、理解されないかもしれない。それはよくわかっている。しかし若い母親たちよ、自分の子どもから目を離し、世界を見たらよい。その世界から、自分の子育てをしたらよい。
若い母親たちは、自己愛的育児をしながら、それが自己愛であることにさえ気がついていない。自己中心性が、かぎりなく肥大化した状態を、自己愛という。「自分の子どもさえよければ、それでいい」「ほかの子どものことは、知ったことではない」と考えるのが、自己愛的育児である。
しかし一度、この自己愛的育児に陥(おちい)ると、それから抜け出すのは容易なことではない。さらに、こうも言える。
たしかにあなたの子どもは(あなた)から生まれるが、いつか、(あなたの子ども)であって、(あなたの子ども)でないときがやってくる。そのとき、自己愛的育児に溺れていた人ほど、そのしっぺ返しに苦しむ。たとえて言うなら、金の亡者が、財産を失うような苦しみといってもよい。
だから、世界を見たらよい。視野を広くし、自分を、より高い位置に置いたらよい。子育ては重労働である。かつ重要である。しかし決して、その子育ての中に、自分を埋没させてはいけない。
「自己愛」というと、どこかあやしげな魅力を感ずる人もいるかもしれない。しかし自己愛ほど、軽蔑すべきものはない。自己中心性がはげしいということは、それだけその人の人格の完成度は、低いということになる。ご注意!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己愛的育児 自己愛的育児法)
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自己愛的育児の例をひとつ
あげてみる。
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【親が子育てで行きづまるとき】
●私の子育ては何だったの?
ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。
「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女性)と。
●親のエゴに振り回される子どもたち
多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、2時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。
「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。
●投書の母親へのアドバイス
冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを3枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか(失礼!)。
●親の役目
親には3つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)よき友としての親の三つの役目である。
この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。
が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。
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この「親が子育て行きづまるとき」を
書いてから、もう7年近くになる。
この原稿を読みなおしてみて、新しく
気がついたことがある。
つまりこの投書をした母親の子どもたちは、
母親のもつ自己愛的育児を、そっくり
そのまま引き継いでしまったのでは
ないかということ。
一見、すばらしい母親に見えるかもしれ
ないが、その母親は、自己愛的育児を
繰りかえしていただけ。自分の子どもを
自分の世界に取り込みながら、どこまでも
自己中心的な子育てをしていただけ。
その自己中心的な部分を、子どもたちが
引き継いでしまった!
が、もしそのとき、この母親が、たとえば、
自分の目を世界に向け、近所の清掃をしたとか、
何かのボランティア活動をしたとか、
そういうことをしていれば、子どもたちは
もっと別の子どもになっていたかもしれない。
自分が(それ)をしないで、子どもたちに
(それ)をしろと言っても、無理である。
自分が(そういう人間)でもないのに、子どもたちに
(そういう人間)になれと言っても、無理である。
ユングの言葉を借りるなら、子どもたちは、
親の(シャドウ)を、そっくりそのまま
引き継いでしまう。これがこわい!
どこまでも自己中心的な子育てをした母親。
その自己中心性を、そっくりそのまま引き継いで
しまった子どもたち。
この話は、決して、他人ごとではないはずである。
(07年6月19日記)