●時間性(2)
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このところずっと、「生きることの時間性」に
ついて考えている。
私たちは、「時の流れ」と、「生きること」を
別々のものと考えている。
しかし、生きることイコール、時の流れでは
ないのか?
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目の前に、私のパソコンがある。モニターがある。19インチワイドのモニターである。そのモニターを見ながら、私は、こう考える。「本当に、そこにモニターがあるのか?」と。
私が見ているモニターの像というのは、あくまでも光の集合体でしかない。その光の集合体を目の網膜がとらえ、脳はそれを電気的信号に変え、大脳の後頭部に伝える。大脳の後頭部には、パソコンのモニターと同じようなモニター(視覚野)がある。そのモニター(視覚野)に、その像が映し出される。
私たちが見ている像は、そのモニター(視覚野)に映った像にすぎない。
が、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、モニター(視覚野)に映った像を、モニター(視覚野)に映った像とは、思わない。思わないまま、目の前に、パソコンのモニターがあると、そのまま信じてしまう。
同じように、私たちは、「時の流れ」と、「生きること」を、別々のものと考える。わかりやすく言えば、「時計」と「生活」の関係といってもよい。
朝6時半に目覚まし時計が鳴る。それを見て、起きる。朝7時になると、ワイフが朝食の用意をし始める。私は居間におり、身じたくを整え、ついでに庭にある畑に水をまく。
つまり「時の流れ」を、「時計」に集約させることによって、「生きること」から切り離してしまう。しかし考えてみれば、時計とて、「時の流れ」に合わせて動くようにできた機械でしかない。時計イコール、「時の流れ」ではない。
そこで私自身について考えてみよう。
若いころ、それは私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのこと。私は1日を、それまでの1年のように長く感じたことがあった。決しておおげさなことを言っているのではない。そのときは、本当にそう感じた。
こうした感覚は、私だけのものかと思っていたが、私の三男が、自分のBLOGに同じようなことを書いているのを知って驚いた。三男もまた、あるとき、「1日を1年のように長く感ずる」と書いていた。
つまり、充実した生活をしていると、ときに人は、1日を、1年のように長く感ずることがある。このことは、老人ホームかどこかで生活している老人たちと対比させてみると、よくわかる。
老人ホームでは、老人たちは、毎日、同じ生活を繰りかえしている。で、今日も、私は母に、こう聞いてみた。
私「何か、したいことはあるか?」
母「何も、ない」
私「何か、ほしいものはあるか?」
母「何も、ない」
私「だれかに会いたいか?」
母「お前に会いたい」と。
母にしてみれば、明日も、今日と同じ。明後日も、今日と同じということになる。つまりそういう生活では、逆に、1年が1日になってしまうかもしれない。あるいは母が、「老人ホームでは、1年を1日のように短く感ずる」と言っても、私は、驚かない。「そうだろうな」と納得する。
つまり「生きること」には、その人のもつ「時間性」が深くからんでくる。からんでくるというよりは、生きることイコール、時間性と考えたほうが、ずっとわかりやすい。同じ1時間でも、充実した生活をしている人にとっては、1日分の密度がある。反対に、そうでない人にとっては、同じ1日でも、1時間分の密度しかない。
時計が示す「時間」に、だまされてはいけない。時計が24時間を示したからといって、1日を過ごしたことにはならない。が、私たちは、時計だけを見て、1日が過ぎたと思う。……思ってしまう。
そこでもう一度、「時の流れ」について、考えなおしてみよう。時計の単位としては、(秒)があり、(分)があり、(時)がある。しかしその時計の単位ほど、あてにならないものはない。ないことは、あのA・アインシュタインが証明している。
地球上の1年にしても、光速に近い運動をしている世界では、数秒にもならない。反対に、地球上の1秒といっても、別の天体の、別の惑星では、1年分に匹敵(ひってき)するかもしれない。
時の流れに、もともと絶対的な単位などないのである。
ということは、「時の流れ」を決めるのは、その人自身の「生命そのもの」ということになる。ここでいう「生きること」ということになる。もっと言えば、「生きること」イコール、「時の流れ」、「時の流れ」イコール、「生きること」ということになる。
物理学の世界では、「時そのものがエネルギー」と説くが、それと同じに考えてよい。私たちは時の流れがもつエネルギーによって、生きている。生かされている。
話がわかりにくくなってきたので、簡単な例で、もう一度、考えてみよう。
たとえばあなたが今、死の宣告を受けたとする。「あと1か月の命です」と宣告されたとする。もしそういう状態になったら、あなたは、どう行動するだろうか。どう反応するだろうか。
たいていの人は、(ひょっとしたら私もそうかもしれないが)、自分の命の短いことを嘆き悲しみ、死の恐怖におびえながら、悶々とした日々を過ごすだろう。しかし中には、その1か月の間に、眠るのも惜しんで、最後の仕事をしあげる人もいる。
そういう人にしてみれば、つまり眠るのも惜しんで、最後の仕事をしあげる人にしてみれば、その1か月を、1年、あるいは10年のようにして生きることができるかもしれない。懸命に生きるというその姿勢が、時の流れを、何十倍も長くする。
あのマルティン・ハイデッガーが言った、「時間性」というのは、そういう意味である。そこで、こう考えてみたらどうだろうか。
「あと1か月の命です」と言われれば、だれしも驚き、それを悲しむ。しかし「あと20年の命です」と言われて、それを驚き、悲しむ人はいない。しかし現実には、もうすぐ60歳になる私にしてみれば、私の寿命は、長くて、あと20年そこそこということになる。あるいは、事故か病気で、それがぐんと短くなるかもしれない。
つまりハイデッガー風に、そこに「死」の存在を積極的に受け入れて生きる。20年そのものを、短いと感じて生きる。寿命は、寿命だ。とたん、それまで見えていなかった世界が、そこに姿を現す。
それは驚くべき世界と言ってもよい。人によっては、ものの見方、価値観が、180度、ひっくり返るかもしれない。一瞬、一秒が、とてつもなく貴重なものに見えてくる。その一瞬、一秒の中に、「生きること」を感ずるようになる。
このエッセーの冒頭で、私は、こう書いた。「が、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、モニター(視覚野)に映った像を、モニター(視覚野)に映った像とは、思わない。思わないまま、目の前に、パソコンのモニターがあると、そのまま信じてしまう」と。
同じように、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、「生きること」イコール、「時の流れ」、「時の流れ」イコール、「生きること」とは考えない。時間と生きることを切り離してしまう。そして無益だろうが有益だろうが、1年生きたという時計的な数字を見ただけで、1年を生きたと思いこんでしまう。
しかしそんな尺度で、自分の人生を評価することは、バカげている。自分の人生を考えることは、バカげている。
大切なことは、今の、この一瞬、一瞬を、1年のように長く、あるいは10年のように長く生きること。その努力だけは、いつも忘れてはならない。
それがここでいう「時間性」の問題ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 時間性)
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なぜここで「時間性」を問題にするか。
言うまでもなく、その「時間性」の
中にこそ、より有意義な人生を送るための
方法を示す、ヒントが隠されている
からである。
少し別の角度から、この問題について
考えなおしてみたい。
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●子どもの自我
ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。話そのものがかみあわない。どこかヘラヘラしているだけといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。
毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日で5万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)
こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。
反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。
一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分からない子どもといった感じになる。
その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だってできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。それが「結果」として表れてくるからだ。先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、この三〇年間の生きざまの結果でしかない。
帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。