●ケチ、一考
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ケチはケチでも、時間や健康に、
ケチな人は少ない。しかし時間や
健康に、もっとケチになろう。
お金にケチな人は多い。それはわかる。
しかし時間や健康は、お金よりも
はるかに大切な財産。
その時間や健康を、平気で、ムダに
している人は多い。
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ふつう「ケチ」というときは、お金やモノに対することをいう。それはわかる。しかしお金やモノよりも、もっと大切なものがある。時間と健康である。
しかし時間や健康に、ケチな人は少ない。くだらない低俗番組を見て、「しまった!」と思う人は、少ない。おかしなものを食べたり、飲んだりして、「しまった!」と思う人は、少ない。
興味深いのは、タバコ。タバコを吸えば、健康に悪い。悪いことを百も承知で、タバコを吸う。もし健康がひとつの(価値)と考えるなら、タバコを吸うことは、それ自体が、「損」。
なぜだろう。なぜ、お金にはみな、ケチになるが、時間や健康には、ケチにならないのだろう。
たとえば浜松市の郊外に、食べ放題の店がある。昼食時だと、1400円前後で、好きなだけ、ものを食べることができる。料理の質も、悪くない。私も一度だけ、家族と入ったことがあるが、「食べなければ、損」という、何ともあさましい誘惑に襲われ、最後まで、料理を楽しむことができなかった。
このばあい、食べなければ損と考えるのは、ほんとうに、正しいのか。ほんとうに、損なのか。必要以上にものを食べれば、かえって体に悪い。健康を害する。
健康を第一に考えるなら、粗食であればあるほうが、よい。大食より、小食のほうがよい。しかし粗食をたしなむ人や、小食にしている人を、ふつう、ケチとは言わない。
そこで提案。
お金やモノにケチになるのは、それはそれとして、時間や健康に、もっと、ケチになろう。
つまらないことで時間をムダにしたり、健康を害するようなことをしたら、はっきりと、「損をした」と思うようにしよう。
・・・これは、私自身の努力目標ということにもなる。
【補記】
たまの日曜日。一度、コタツに足を入れたら最後。そこは天国。空は曇天。葉を落とした庭の木は、冬のかわいた風の中で、揺れている。
ぼんやりと庭を見ながら、時間をつぶすのもよし。手元にある雑誌に目を通すのもよし。しかし時間は、刻々と過ぎていく。
こういうとき、私は、よくこう思う。私の頭は、たとえて言うなら、会社の社長。体は、たとえて言うなら、会社そのもの。会社の中では、無数のスタッフが、それぞれの仕事をもって、働いている。社長である私は、会社のスタッフに命令をくだす。
「体を動かして、働け!」と。具体的に指示を出すときもある。「足よ、立て」「手を、動かせ」「外に出ろ」「自転車に乗れ」と。
しぶしぶながら、スタッフたちが、私の命令に従う。動き出す。ときどき、不平、不満を口にするのもいるが、それは無視。私はさらに命令をくだす。「早くしろ」と。
人間の脳みそというのは、本来、怠け者と考えてよい。常に楽な道を選ぼうとする。いやなことは、避けようとする。だから脳みその言いなりになっていたら、体そのものも、怠け者になる。が、それでは健康は、維持できない。
言い換えると、脳みその言うがままにしていたら、人間は、長生きはできない。つまりこれも自然の淘汰(とうた)のひとつと考えることはできないか。
もう少しわかりやすく説明しよう。
「生きたい」という強い意思のある人だけが、この世界では、生き残ることができる。強い意思をもつ人イコール、強い人間。つまり優秀な種族と考えてよい。一方、その意思の弱い人は、自滅プログラムが働いて、やがて健康を害し、死ぬ。たとえばコタツの中に入り、それでよいと思っている人は、(それだけでは決まらないが)、その分だけ、健康を害することになる。害した分だけ、長生きできない。
そこで思い切って、自分の体に命令を下す。「動け」「動いて、自転車に乗れ」と。つまりそれがここでいう(強い意思)ということになる。
で、動き出すときは、たしかに、つらい。体も、思うように動かない。しかし自転車にまたがり、冬の冷気を頬に感じたとたん、足に力が入る。こぐ。前に進む。とたん、そのつらさが、快感に変わる。
体が命令どおり動くということ自体が、喜びに変わる。さらに言えば、それが(生きている)という喜びに変わる。
自分の体を、(私の体)と考えてはいけない。「私の体」と思うのは、その人の勝手かもしれないが、実は、(私の体)の中で、(私)が、作ったものは、何ひとつ、ない。指一本、生命の流れの中でできた、つまりDNAの構成物に過ぎない。
お金がなければ、不幸になる。それはわかる。しかし時間や健康は、お金では買えない。幸福も生きがいも、お金では買えない。時間や健康には、限りがある。だったら、……同じことを繰りかえすが、時間やお金に、もっとケチになろう!
(追記)
昨日、近所の男性が、1人、なくなった。回ってきた回覧板を見ると、満60歳だったという。
私は、同年齢の人がなくなるたびに、ズシン、ズシンと、それが胸に響く。どういうわけだか、それが胸に響く。
あとでワイフや息子に聞くと、「心疾患だった」という。息子の同級生の父親だったという。
私「どうして心疾患とわかった?」
ワ「あら、新聞には、そう書いてあったわ」
私「新聞には、そんなことも書いてあるのか」
ワ「そうよ」
私「息子の友人の父親か?」
ワ「そうみたい。私も、名前だけ、どこかで聞いたような感じがするわ」と。
心疾患……おそらく心筋梗塞のような突然死ではなかったか。団塊の世代が、またこうして1人、減った。懸命に戦後の時代を駆け抜けてきて、そして心疾患。私の世代には、会社人間、仕事一筋という人が多い。何かを信じ、何かを求めて懸命に生きてきた。
回覧板を見ると、2x日に通夜。翌日の昨日、葬儀とある。
私「葬儀は、昨日、終わったみたいだよ」
ワ「早いわね」
私「回覧板が、遅いよ。これでは、回覧板にならない」と。
ついでながら、私は、新聞の志望者欄は、見ないことにしている。見始めると、クセになる。気になる。仕事がら、そういう欄を毎日見ている人もいるようだが、私は、見ない。