【茶パツと文化】
だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)
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子どもの茶パツが、問題になった。
先日も、ある小学校の先生と電話で、
そんな話題になった。
少し前に書いた原稿を、それについて
書いたものを、拾ってみる。
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●子どもの茶パツ
浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉をひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演などに言っても、それがよく話題になる。
まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではないから、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツにすることができる。手間もそれほどかからない。
●低俗文化の論理
しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性とはいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。
裏を返していうと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこらの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化する。
文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけなくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決まる。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというのは、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。
●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかっているようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある。
小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤとした風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。……らしい。
●まるで宇宙人の酒場!
が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。
身長の高い低い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のような、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まるで違う。
アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にしたら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさわしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩いていても、だれも見向きもしないかもしれない。
●結局は島国の問題?
言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、しかしそれはもう世界の常識ではない。
そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただこの日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、それを心配しているのではないか?
私にはよくわからないが……。
Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司
【死は厳粛に】
乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)
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子どもに「死」を、どのように教えたら
よいか。
言うまでもなく、「死」があるからこそ、
「生」のすばらしさがわかる。
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●死を理解できるのは、3歳以後
「死」をどう定義するかによってもちがうが、3歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。
飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(3歳男児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(3歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言った子ども(3歳男児)もいた。
子どもが死を理解できるようになるのは、3歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違ったものである。3〜7歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。
●死への恐怖心
このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼっちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。
たとえば母親が臨終を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。ちなみに小学5年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、8人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。1人「60歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がいた。
質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「それは困る」と答えた。
●死は厳粛に
子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそれを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。
死を茶化してはいけない。もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。
死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。
●死をとおして生きることの大切さを
どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなことも頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。