●思考のメカニズム
古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。
意……「何かをしたい」という意欲
志……その意欲に方向性をもたせる力
思……思考作用、考える力
慮……深く考え、あれこれと配慮する力
智……考えをまとめ、思想にする力
最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分がそれぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというのだ(伊藤正男氏)。たとえば……。
大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
帯状回……思考の動機づけをつかさどる
海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する
これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用をコントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すのは危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけると、つぎのようになる。
大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方でいう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。
もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のことをいう。が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切である。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけである。
どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(375)
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●考えることを放棄する子どもたち
「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によるところが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がないということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはいる。おとなでも考える力のないおとなはいる。
こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたときのこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言った。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。
一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべっているかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。
まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。あるいは他人の言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからといって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言っているのでもない。)
そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざりにされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにすること」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生によく質問するのですよ」と言う。)(田丸謙二先生、指摘)
その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでしまったところにある。
大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。またそうでなければならない。
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●知識と思考
知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。
認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。
で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参考、新井康允氏)。
でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によって、その価値が決まる。
たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。
しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。
こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正男氏)。
伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。
少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。
もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。
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●馬に水を飲ますことはできない
イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。
大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。
つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)
思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。
新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。
親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。