【子どもの人格論】
●まず、はじめに……
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人には、(本当にすばらしい人)と、
(見かけ上、すばらしい人)がいる。
そうした(ちがい)は、どこから、
どう生まれるのか?
また、どうすれば、その(すばらしい
人)になれるのか?
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●Bという女性教師
ありのままを書く。
私が昔勤めていた幼稚園に、Bという女性教師がいた。当時年齢は50歳くらいではなかったか。
そのBという女性教師が、ある午後、職員室へ飛びこんできて、こう言った。はき捨てるような言い方だった。
「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさないんだから、いやになっちゃう!」と。
Bという女性教師は、そういう教師だった。言いたいことを、スケズケと言った。私も、2度ほど、何かのことで意見を言うと、「生意気、言うんじゃないよ!」と、平手で、頬を殴られたことがある。
で、そういう教師の話をすると、おおかたの人は、「何という教師だ!」と、思うにちがいない。「教師として、あるまじき人間」と。
私もそう思っていた。ごく最近まで、そう思っていた。しかしBという教師は、いつも本音で生きていた。知的レベルは、それほど高くなかったが、その教師の教育論には、一種独特のものがあり、何かと参考になった。
●自我構造理論
一方、その私はどうかというと、心の奥深くでは、同じように思うこともある。しかしそう思ったとたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。
こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明できる。
私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。
そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。
そこでこの自我構造理論を、Bという女性教師に当てはめて考えてみると、こうなる。
イドの世界では、その女性教師は、いつも何かの見かえりをもとめて、その母親の子どもと接していたことになる。多くの人は、「教師」というと、聖職を意識し、「聖職であるなら、そういうことは考えないはず」と思うかもしれない。
しかし教師といっても、ふつうの人間。ばあいによっては、ただの人間。あなたやあなたの夫(妻)と、どこもちがわない。またそうであるからといって、まちがっているということにもならない。
Bという女性教師は、それを自然な形で(?)、ありのままの自分を表現したにすぎない。
「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさないんだから、いやになっちゃう!」と。
●イドと自我の戦い
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。
同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。
EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)
つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
(言うべきか)(言うべきでないか)ということになると、Bという女性教師は、そういうことを、職員室という場では、言うべきではなかった。たとえそう思ったとしても、だ。つまりその分だけ、Bという女性教師は、人格の完成度が、低かったということになる。
が、その一方で、こういう問題も、ある。
●教師という仮面
教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、ものを考える。接する。
そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。
ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。
そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、つづけることはできない。
そこでふと我にかえって、自分に気づく。そしてはき捨てる。
「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさないんだから、いやになっちゃう!」と。
●自己管理能力
もしそのとき、Bという女性教師が、自我の力で、イドを抑えこんでしまっていたとしたら……。外見上は、すばらしい教師のままでいられたかもしれない。私たちに対する印象も、それほど悪くしないで、すんだかもしれない。
で、この(ちがい)こそが、つまりは、(真の人間性)ということになる。
人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。
さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こんな話を書きたい。
●思春期に肥大化するイド
昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。
私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。
その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。
最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。
なぜか?
それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。
思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力が低下する。
言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。
●では……
ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。
最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。
そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。
イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなもの。
そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。
つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり繰りかえす……。
冒頭の話にもどす。
Bという女性教師だが、今は、他界して久しい。が、私には、強烈な印象を残して、この世を去っていった。
その教師を思い出しながら、今でも、ときどき、ふとこう思う。
「あの先生のように、本音をむきだしにして生きることができたら、私ももっと気楽に生きることができるのになあ」と。
……どうやら私はまだ、どこかで仮面をかぶったまま生きているらしい。心のどこかではその教師を否定しながら、その一方で、あこがれに似た気持ちをいだく。
今の私には、(本当にすばらしい人)になるのは、とても無理だと思う。ホント!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)