●勇気
++++++++++++++++
勇気にもいろいろある。
その中でも、最大の勇気は、
負けを認める勇気ではないか。
自分のことでも、また
子どものことでも……。
+++++++++++++++++
勇気にもいろいろ、ある。子どもの世界風に言えば、悪と戦う勇気、未知の世界に飛び出す勇気、恐怖と戦う勇気などがある。自分を奮(ふる)いたたせることを勇気というが、広辞苑には、「いさましい意気、ものに恐れない気概」とある。
しかし本当の勇気は、負けを認める勇気ではないか。「私はバカです。私はつまらない人間です。私は負けました」と、それをすなおに認める勇気ではないか。
人も、ある年齢になると、否応(いやおう)なしに、その(負け)を認めざるをえない立場に立たされる。体力、気力、それに知力など。そのつど、自ら負けを認めて、身を引く。そんな場面が多くなる。
しかしそれは、実のところ、たいへん苦しい戦いでもある。負けを認めたくないから、最後の最後の、その土壇場でがんばる。ふんばる。しかしその力には限界がある。できるなら勝ちたい……そう思いながら、最後の力をふりしぼる。
が、こんな状態では、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。心を不安にするザワめきを、消すことはできない。こんな話を、姉から聞いた。
姉はボランティアで、近所のひとり住まいの老人たちの世話をしている。その中の1人が、このところ、大便の始末ができなくなってきた。トイレに間にあわないとか、あるいは、うまく下着をさげられないとか、いろいろあるらしい。トイレから出てくるたびに、衣服に、大便をつけて出てくるという。
が、当の本人は、絶対に、それを認めようとしない。姉が、「おばあちゃん、ここにウンチがついているでしょ!」と言って、それを見せても、「ついていない!」「ウンチじゃない!」と言ってがんばるという。
しかたないので、姉が、下着や衣服を取りかえてやろうとするのだが、それについても、「このままでいい」「自分でできる」と言って、拒否するという。が、姉がつらがるのは、そのことではない。このところ、その老人が、姉に反抗的になってきたこと。言葉もきつくなってきた。ときに、そういう姉を、罵倒することもあるという。
で、こういうとき、老人介護のマニュアルには、こうあるという。「そうだねと言って、老人の言い分を認めてやること」と。が、便臭だけは、どうにもならない。だからついつい姉も、きつく出ることもあるという。
私が「きっと、自分がなさけなくて、その老人は、自分に怒っているのだよ」「負けを認めるのがいやなんだよ」と言うと、姉は、「そうかしら?」と言った。姉は、その老人が、ますますがんこで、わがままになってきたと言った。
こういう例は、多い。老人の世界には、とくに、多い。過去の地位や肩書き、名誉や栄華にしがみつき、それから自分を解放できないでいる老人たちだ。人生そのものを、完全燃焼していない。その不燃焼感が、ますますそういった老人たちをして、がんこにする。しかしその老人は、女性である。
私「どうして、そんなにプライドが高いのかね?」
姉「昔から、近所でも、お姫様と呼ばれていたような人だから……。実家は、元武家とかで、こんな田舎に嫁いでくるような人ではなかったみたい……」
私「そういうことか……」
姉「そういうこと」と。
が、それだけではないようだ。この世界には、「応報」という言葉がある。長い話だったが、姉の話をまとめると、こうなる。
その女性は、若いときから、近所の人たちを、どこか見くだしていたという。そして夫の両親、つまりその女性の義理の両親たちが、ボケ始める年齢になると、陰で両親に対して、虐待に近いようなことをしていたという。
姉「表では、いい嫁さんという感じだったけど、裏では、そうでなかったみたい」
私「たとえば……」
姉「きつい人だったみたいよ。とくに母親は、その女性に、ビクビクといった感じだったわ」と。
義理の母親が、便をもらしたりすると、その女性は、大声をあげて母親を叱っていたという。その声が、となり近所まで、聞こえることがあったという。
私「そういう過去があるから、自分を許せないのだろうね、きっと……」
姉「そうかもね」と。
親子でも、親が老齢期に入ると、立場が逆転するということは、よくある。そして親が子どもにしたのと同じことを、今度は、子どもが親にするようになる。
ときどき耳にする例は、こんな話だ。
親が子どもを虐待すると、今度は、その親が老人になったとき、同じように、子どもが親を虐待するようになる。まさに「因果応報」ということになる。
話が脱線したが、こうした応報を避けるためにも、「負けを認める勇気」、それが重要である。若いときはなかなかむずかしいかもしれないが、しかしそのいさぎよさが、心を軽くする。人間関係に、さわやかな風を通す。
その大便をもらす老人にしても、「ごめんなさい」と負けを認めてしまえば、世話をする姉だって、救われる。が、いつまでも、「そんはずはない」「そうであってはいけない」とがんばるから、人間関係も、ぎこちなくなる。
そうそう、大切なことを言い忘れた。
実は、負けることは、負けることではない。日本では、昔から、『負けるが勝ち』という。それについては、今までにも何度も書いてきた。以前、書いた原稿を、ここに添付する。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●負けるが勝ち
この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれて、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。
まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に1人はいる。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。
つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集まる。
しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。
……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわからないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではないことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。
それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【親の欲目】
●親の欲目
「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それくらい自分の子どものことを知るのは難しい。
親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。
●やってここまで
ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんばっていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。またある夜1人の父親が、A君(中1)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまった」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子どもの学力となると、さらに難しい。
たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強の量が少なかっただけ」とか、「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかるが、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。
●子どもを受け入れる
子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというのであれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安がつきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしてもし後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほどよい。
そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成績はますますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、そういう父親をいう。